近畿学生野球連盟
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関西学生野球連盟」とは異なります。

近畿学生野球連盟
創立1982
参加チーム18
日本
前回優勝1部:和歌山大学(5回目)
2部:神戸医療未来大学(3回目)
3部:大阪教育大学(2回目)
最多優勝1部:奈良学園大学(43回)
2部:大阪府立大学(18回)
3部:大阪外国語大学(現:大阪大学外国語学部)(11回)
公式サイト ⇒近畿学生野球連盟

近畿学生野球連盟(きんきがくせいやきゅうれんめい、英語表記は KINKI UNIVERSITY BASEBALL LEAGUE)とは、近畿地区に所在する大学の硬式野球部により構成された野球リーグである。母体となった連盟から数えると関西では最古の連盟。全日本大学野球連盟の傘下団体。
略史

大別すると以下の5期に分けられる。
戦前・戦中

1917年に同志社大学立命館大学関西大学、関西学院高商部(1932年から関西学院大学)、大阪薬学専門学校(大阪大学薬学部の前身)、大阪高等工業学校(1929年から大阪工業大学、後の大阪大学工学部)、大阪高等商業学校(1928年から大阪商科大学大阪市立大学の前身のひとつ)、大阪歯科医学専門学校(大阪歯科大学の前身)の8校により関西学生野球連盟が結成[1]。その後、構成校の加盟脱退が繰り返され京都帝国大学第三高等学校、大阪高等医学専門学校(後の大阪医科薬科大学)なども参加した時期もあった。

1923年に旧制の府立大阪医科大学(1931年から大阪帝国大学医学部)、官立神戸高等商業学校(1929年から神戸商業大学神戸大学の前身のひとつ)、大阪高等工業学校により発足した官立三校野球連盟を始まりとして、以後大阪外国語学校(大阪外国語大学を経て大阪大学外国語学部の前身)、関西学院高商部、大阪高等商業学校と順次加盟校を増やし、1928年に神戸高等工業学校(1949年に新制の神戸大学工学部)を加え、これらの7校の旧制高等専門学校と旧制大学によって「関西学生野球連盟」を発足[2]。大阪ゾーンと神戸ゾーンに分かれてリーグ戦を行い最後に優勝決定戦を行なっていた。

1931年、この1928年結成の関西学生野球連盟の有力校であった関西学院と神戸商業大学が1930年に結成された関西四大学野球連盟(関西大学、京都帝国大学、同志社大学、立命館大学)へ加盟(神戸商業大学は移籍。関西学院は1933年中までは旧関西学生との重複加盟)し、同年秋から関西六校野球連盟が発足。翌年3月の関西学院の旧制大学昇格を待ち「関西六大学野球連盟」と改称した。

なお、戦前・戦中の当時は大学野球界(旧制)を全国的に統一する組織が存在しなかったことから、関西学院の重複加盟の例の様に、基本的(当該連盟が特に禁止しなかった場合を除き)には複数連盟への所属は全く差支えがない状態であった。

関西大学野球史を語る上では一般的には、現在の関西学生野球連盟の直接の母体になった関西六大学野球連盟 (旧連盟)が関西では最古の大学野球リーグとされている記述が多いが、前述の経緯から母体連盟という観点で捉えた場合、関西六大学野球連盟 (旧連盟)が1917年結成の関西学生野球連盟を引き継いだわけではないので、決して関西六大学野球連盟 (旧連盟)のみが最古であるということにはならない(現存しているリーグの中で、最も構成メンバーの入れ代わりが少ない状態で残っているのが、かつての関西六大学野球連盟 (旧連盟)の系譜を実質的に引き継いだ現在の関西学生野球連盟ということは言える)。1917年結成の関西学生野球連盟は、近畿学生野球連盟と関西学生野球連盟に共通のルーツ的なものと言える。また、関関同立各校や現在の京大、神戸大もその後、幾多の加盟・脱退、合従・連衡を経ているので、現在の関西学生野球連盟のルーツを1930年結成の関西四大学野球連盟や、さらにその母体になった1929年結成の3校対抗戦(関西六大学野球連盟 (旧連盟)を参照)に求めるならば、近畿学生野球連盟のルーツは1923年結成の官立三校野球連盟に求められるので、むしろ近畿学生野球連盟の母体の方が古いことになる。
終戦直後(近畿大学野球連盟の成立)

戦時命令により一時中断していた各大学野球リーグは、終戦により1946年春から順次活動を再開していたが、1947年には大学野球の最優秀チームを決めようという気運が盛り上がり、旧関六は東京六大学野球連盟東都大学野球連盟とともに全国大学野球連盟を結成し、この組織の下で大学野球王座決定戦を実施した。また、1949年施行の学制改革に伴う全国組織としての新制大学野球連盟が各種の旧制学生野球連盟(「全国高等学校野球連盟」「全国専門学校野球連盟」「全国師範学校野球連盟」)を改組・再編する形で発足した。

これらの一連の動きの中で、1947年には旧関西学生野球連盟の加盟校中2校が中心になり大阪三大学野球連盟として再スタートを切り、1948年の春には2校を迎え近畿五大学野球連盟と改称し秋季には更に1校が加わり近畿六大学野球連盟となった。また1949年の学制改革施行に伴い全国新制大学野球連盟が発足。翌年の1950年から傘下の団体に編入となった。なお1951年にはさらに加盟校を6校加え1部2部制を導入(※3)するのを機に名称を近畿大学野球連盟と改めた。※3:12校中7校が1928年結成の戦前の関西学生野球連盟時代の加盟校が新制大学に移行しての出戻り組み。
近畿地区大学野球連盟の傘下時代

1952年、全国大学野球連盟が新制大学野球連盟を吸収して、大学野球の統一組織である全日本大学野球連盟が結成された。この組織の成立に伴い、近畿大学野球連盟は旧関六・京滋の2連盟もともに全日本連盟傘下として活動することとなるが、全日本大学野球連盟結成時の経緯から全日本大学野球選手権大会の代表枠において、旧関六は旧制大学組として優勝校がそのまま出場できる権利がある一方、近畿・京滋の2連盟は新制大学組の近畿地区内の下部連盟という扱いとなり近畿地区大学野球連盟として出場権は1つとされた。
連合の結成時代

近畿地区大学野球連盟が関西六大学野球連盟(旧連盟)と合併し関西大学野球連合を組織。旧近畿地区の一員として下部を構成。近畿大学野球連盟の優勝校は、関西六大学リーグとの入れ替え戦への代表決定戦に出場。
連合解体・独立後

関西大学野球連合が解散し一部を再編成。全日本大学野球選手権へ代表権に関しては近畿大学野球連盟として独立したが、連合解体直後から当面は、5リーグでの関西地区としての枠を争う形で割り当てられる。数年後には全国の再編成に伴い、関西地区各連盟と共に各連盟1代表の単独枠を獲得。
沿革

※関連団体についても併記
戦前

1923年 旧制の府立大阪医科大学(1931年から大阪帝国大学医学部・大阪大学医学部の前身)、官立神戸高等商業学校(1929年から神戸商業大)、大阪高等工業学校(1929年から大阪工業大学 (旧制)・現在の大阪大学工学部の前身・現大阪工業大学とは別)で官立三校野球連盟を発足。 

1926年 大阪外国語学校(後の大阪外国語大学・大阪大学外国語学部の前身)が加盟し官立四校野球連盟に改称

1927年 関西学院高商部(1932年から関西学院大学)、大阪高等商業学校(1928年から大阪商科大学 (旧制)大阪市立大学の前身のひとつ)が加盟し、関西六校野球連盟(※4)と改称。

1928年 神戸高等工業学校(1949年に新制の神戸大学工学部となる)が加盟し関西学生野球連盟 (旧連盟)と改称。また大阪高等商業学校が大阪商科大学に改称。京都地区では京都大学専門学校野球連盟から旧制大学が独立し、大谷大学京都府立医科大学[3]京都帝国大学立命館大学龍谷大学の5大学で京都五大学野球連盟を設立。

1929年 官立神戸高等商業学校が神戸商業大学に、大阪高等工業学校が旧制の大阪工業大学に改称。関西大学同志社大学京都帝国大学の三大学対抗戦開始


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