近畿大学体育会硬式野球部
[Wikipedia|▼Menu]

近畿大学体育会硬式野球部加盟団体関西学生野球連盟
本拠地奈良県生駒市西菜畑町
創部1949年
監督光元一洋
公式サイト ⇒近畿大学体育会硬式野球部
リーグ戦成績
リーグ成績優勝49回
全日本大学野球選手権大会
出場回数31回
最高成績優勝 4回
明治神宮野球大会
出場回数13回
最高成績優勝 2回
テンプレートを表示

近畿大学体育会硬式野球部(きんきだいがくたいいくかいこうしきやきゅうぶ)は、関西学生野球連盟に所属する大学野球チーム。近畿大学の学生によって構成されている。

ユニフォームの表記は、2015年度までは赤文字で「KINKI」であったが、2016年度からは赤文字で「KINDAI」に変更された(2016年4月1日より、同学の英文名称が「KINKI UNIVERSITY」から「KINDAI UNIVERSITY」に変更されたため)。野球帽にも赤色の「K」の一文字が記されている。

なお、広島県東広島市にキャンパスを置く同大学工学部、および福岡県飯塚市にキャンパスを置く同大学産業理工学部も、工学部硬式野球部広島六大学野球連盟に所属)、産業理工学部硬式野球部(九州地区大学野球連盟に所属)と、それぞれ独自に硬式野球部を設けている(いずれも、ユニフォーム・野球帽のデザインは本部のものと同じ)。
創部

1949年昭和24年)が公式の創部年。
歴史

1941年(昭和16年)、近畿大学の前身の一つである大阪専門学校(日大大阪専門学校)が関西学生野球連盟(旧連盟)に加盟。戦後の1947年(昭和22年)、同じく前身である大阪理工科大学(大阪専門学校の系列校)が大阪大学大阪商科大学と共に大阪三大学野球連盟としてリーグ戦を再開。

正式に近畿大学となった後の1949年(昭和24年)が正式な創部年とされている。当初は大阪三大学野球連盟の流れから近畿大学野球連盟に所属。1959年(昭和34年)頃から、近畿地区大学野球連盟配下の3連盟(京滋・近畿・阪神)と旧関西六大学野球連盟を合併して入替戦を導入する案の主導役となった。

1962年(昭和37年)、入替戦を趣旨とする関西大学野球連合が結成されたのに伴い下位リーグ(2部)の近畿大学野球春季リーグ戦首位校として、2回生横山小次郎投手らを擁して旧関六最下位校神戸大との入替戦に勝利し、旧関西六大学入りを果たす。昇格後の1960年代以降、旧加盟校の関関同立や、同様に昇格した龍谷大などとリーグ戦で優勝争いに絡む展開を続けた。

1966年(昭和41年)春季リーグ戦において、山下律夫投手、2回生有藤通世藤原満らの活躍により旧関六で初優勝を果たした。続く第15回全日本大学野球選手権大会決勝で、森内一忠投手や正垣泰祐擁する日本大に2-3で惜敗し準優勝に留まった。

1973年(昭和48年)、旧関六で無双した関西大山口高志投手(通算46勝〈旧関六・現リーグ歴代1位〉11敗)卒業後、森口益光投手(通算39勝〈旧関六・現リーグ歴代3位〉16敗、76年卒)擁する近大、田尾安志投手(通算14勝3敗、76年卒)擁する同志社大、彼らの1年下の斉藤明雄投手(通算30勝17敗、77年卒)擁する大阪商業大各校がリーグ優勝をかけてしのぎを削った。

1981年(昭和56年)、エース西川勝投手(通算34勝)、主軸に3回生丸山一仁、連盟最多本塁打記録19本保持者[1]の2回生西浦敏弘らを擁して初の春秋リーグ戦連覇を果たす。秋季リーグ戦では関大との優勝決定戦を延長17回の末に制した。続く第30回全日本大学野球選手権大会準決勝で宮本賢治投手擁する亜細亜大を破り、決勝で森岡真一投手や平田勝男擁する明治大に2-8で敗れ準優勝。第12回明治神宮野球大会では準決勝で優勝した3回生木戸克彦や2回生和田護投手擁する法政大に敗退。

1982年(昭和57年)の連合解体後、関関同立や京都大と共に関西学生野球連盟の発足に参加。加盟校のうち唯一、連合以前の旧関西六大学リーグに属していなかったチームとなる。近大総監督を務めた松田博明は、1963年(昭和38年)に関大の西川克弘投手がアマチュア野球の規定を破ってプロと契約を結んだ「西川事件」の際に関大除名に反対した恩により、関大の強い勧めによって近大の連盟入りが実現したと推測している[2]

1980年代には松田博明監督の下で黄金期を迎え、4回生エース西川勝を擁して81年秋の優勝決定戦で延長17回の末に4回生早瀬万豊投手らの関大を下し、近大初の春秋連覇を達成[2]。翌82年春に開始した関西学生野球リーグで3連覇を遂げ、合わせて旧関六からの通算優勝回数が9回から二桁12回となる。この3連覇を含め以降、4連覇・6連覇を各1回遂げる圧倒的な強さをみせた。

1983年(昭和58年)、4回生守永紀之投手や主砲西浦敏弘、1回生畑山俊二らを擁して春季リーグ戦で優勝。第32回全日本大学野球選手権大会決勝で、守備の失策から白井一幸や3回生河野博文投手擁する駒澤大に1-5で敗れ準優勝に留まる[2]。秋季リーグ戦では、2回生井口和人投手擁する同志社に次ぐ2位に留まる。翌1984年(昭和59年)春から翌1985年(昭和60年)秋までリーグ戦4連覇。84年春の第33回全日本大学選手権は準決勝で2回生阿波野秀幸投手擁する亜細亜大に0-2で惜敗。同年秋の明治神宮大会は関西地区代表決定戦に敗れ出場できず。翌85年春、主戦の3回生西岡剛(通算17勝7敗)や2回生小松領平(通算21勝)らの投手陣や3回生畑山らを擁するも、当時大学選手権でも採用されていた関西地区代表決定戦で国立の大阪大などに敗れ本大会に進出できなかった。同年秋の第16回明治神宮野球大会は準決勝で3回生西崎幸広投手擁する愛知工業大に2-4で敗退。翌1986年(昭和61年)春秋リーグ戦では、4回生岩本利仁投手(通算27勝)や3回生古田敦也捕手擁する立命館大にリーグ戦連覇を許した。

1987年(昭和62年)、エース山内嘉弘(通算14勝4敗)、小松領平、森田幸一木村恵二ら4回生の強力投手陣を擁し春・秋リーグ戦連覇。続く第36回全日本大学野球選手権準々決勝で3回生上岡良一投手擁する東北福祉大に延長12回2-5で敗退。同年秋、第18回明治神宮野球大会2回戦で益田明典投手擁する愛知学院大に1-3で敗退。翌1988年(昭和63年)、4回生十河章浩に、エース酒井光次郎(通算19勝2敗)や西原英基の投手陣、中西美之捕手、内匠政博岡本圭治ら3回生を擁し春・秋リーグ戦連覇。続く第37回全日本大学野球選手権準決勝で3年葛西稔投手擁する法政大を5-2、決勝の上岡投手擁する東北福祉大戦では8回裏に十河の逆転2ランが飛び出し辛うじて3-1で下し初優勝を果たす(同年の第19回明治神宮野球大会昭和天皇御不例で中止)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:64 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef