近江屋事件(おうみやじけん)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬と中岡慎太郎、龍馬の従僕であった山田藤吉の3人が京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助邸において殺害された事件。実行犯については諸説あるが、江戸幕府の組織である京都見廻組によるものという説が有力である[1]。 坂本龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が江戸幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、三条河原町近くの材木商酢屋(すや)を京都での拠点にしていたが、慶応3年10月ごろに近江屋へ移った。近江屋は醤油商として蛤御門の変以降土佐藩の御用を務めており、その屋敷は土佐藩志士の基地的な存在であった[2]。 「坂本龍馬が暗殺される」という風聞は当時から広く流れており、御陵衛士の伊東甲子太郎と藤堂平助が近江屋を訪れて[注 1]国事を2時間ほど語り、伊東は「新選組と見廻組が狙っている」と告げたという[3]。薩摩の吉井幸輔は「四条ポント町位ニ居てハ、用心あしく」として土佐藩邸に入れないのであれば薩摩藩邸へ入るよう勧めたが、龍馬は「(薩摩藩邸にこもることは)実にイヤミにて候ば」と返答し[4]、近江屋に留まった。また山田藤吉を従僕として雇い入れたのも用心のためであった。 近江屋は誓願寺への逃亡も容易な土蔵を構えており、龍馬はそこに滞在していたが、11月12日頃から風邪をひいていたため、11月14日には近江屋の二階に移っていた[5]。 11月15日(グレゴリオ暦12月10日)、七ツ半(午後五時)ごろ、中岡は書店であった菊屋を訪れた[6]。中岡は主人の息子である鹿野峰吉 六ツ半(午後七時頃)、薩摩屋からの返書を持った峰吉が近江屋に到着した[7]。そのころ龍馬と中岡は何事か話し合っていたが、峰吉が中岡に返書を渡した後、岡本健三郎が入ってきた[8]。小半時ほど雑談した後、龍馬が「腹が減った」と言い出し、峰吉に軍鶏を買いに行かせ、用事があった岡本も峰吉と同行した[9]。峰吉は四条小路の鳥新に向かい、軍鶏肉を購入して近江屋に戻ったのは五ツ半(午後九時頃)だった[10]。 襲撃時の状況は証言者によって違いがある。 夜になり客が近江屋を訪れた。 谷干城が中岡から聞いた証言によれば、客は十津川郷士を名乗って「龍馬に会いたい」と願い出た。応対に出た山田藤吉は、名刺を龍馬のもとに持っていった。藤吉は戻っていったところで斬られた[11]。谷は「藤吉は龍馬らが襲撃された八畳間で倒れていた」と証言した[12]。これに対して峰吉は、藤吉が階段下で斬られていたことから、「取り次いだ形跡はない」としている[13]。 今井信郎は刑部省の口上書において、五ツ半ごろ、「松代藩士を名乗って応接を求め、四名が部屋に上がっていった」と証言している[14]。 藤吉が倒れ、大きな物音がすると、龍馬は「ほたえな![注 3]」と叫んだ[13]。このあと二人の刺客が奥の八畳間に乱入、そのうちの一人の今井信郎は龍馬の前頭部を横に払い、一人は中岡の後頭部を斬った[13]。龍馬は奥の床の間にあった刀を取ろうと振り返ったところを右の肩先から左の背中にかけて斬られた[13]。龍馬は刀をとって立ち上がったが、抜くには至らず、鞘のままで刀を受け止めた。しかし刺客の刀は鞘ごと刀を削り、龍馬の前頭部に大きな傷を与えた[15]。龍馬は「石川[注 4]、刀はないか、石川、刀はないか」と叫びつつ倒れた[15]。 慎太郎は刀を屏風の後ろにおいており、刀を抜くこともできずに鞘のままで防戦していた[15]。しかし最初の傷が深く、両手両足を斬られ、特に右手はほとんど切断されるほどであった[15]。また臀部を骨に達するほど斬られたが、慎太郎は死んだふりをしていた。刺客は「もうよい、もうよい」と叫び、引き上げた[16]。 間もなく気がついた龍馬は、刀を灯火にかざし「残念残念」と言い、「慎太、慎太、手は利くか」と言った。慎太郎が「手は利く」と答えると、龍馬は六畳間のところに行き「新助医者を呼べ」といった。それからかすかな声で「慎太、わしは脳をやられちょるもうだめだ」と言い、昏倒した[16]。慎太郎は痛みをこらえ、裏の物干しに出て家人を呼んだが返答がなく、屋根を伝って北隣の道具屋井筒屋嘉兵衛の家の屋根で人を呼んだが返答はなく、そのままそこにとどまった[17]。 凶行時、近江屋主人の井口新助は、妻子とともに一階の奥の間にいた。河原町通りを隔てた真向かいにあった土佐藩邸に知らせようとしたが、見張りがいたため引き返した[17]。新助は妻子に落ち着いて声を立てないよう言い、裏口から土佐藩邸に向かった[17]。 新助の連絡を受け、下横目 その後土佐藩邸から曽和慎八郎 藤吉は11月16日の夕刻に死亡[注 5]。中岡は17日の夕刻に死亡[注 6][22]。中岡は最後まで速やかな倒幕を訴えていたという[24]。 18日、海援隊と陸援隊によって三人の葬儀が行われた[25]。龍馬と中岡の墓碑銘は木戸準一郎(木戸孝允)が筆を執った[25]。 龍馬と中岡の死は倒幕派に大きな衝撃を与えた。岩倉具視は「何物の凶豎ぞ、我が両腕を奪い去る」と嘆き[22]、太宰府にいた三条実美は寝食を忘れるほど慟哭し、12月20日には両名のために祭壇を作って霊を祀っている[26]。由利公正も同士とともにその霊を祀っている[27]。 事件発生当時、土佐藩家老の寺村左膳は「新選組による犯行だ」と考え、新選組から離脱し対立していた御陵衛士の証言もそれを補強した[28]。海援隊士は当時「いろは丸事件」などでトラブルを抱えていた「紀州藩の犯行」と推定し、天満屋事件などが起こったが、実行犯は見つからなかった。しかし大正元年、見廻組隊士今井信郎の供述に基づく龍馬殺害の経緯が『維新土佐勤王史』に収録され、大正15年には今井の口上書が『坂本龍馬関係文書』に収録されて以降は、文献的に「京都見廻組の佐々木只三郎ら」を実行犯とする説が通説として扱われている[29][30]。 見廻組隊士だった今井信郎は、1869年(明治2年)に箱館戦争で降伏し、兵部省と刑部省によって取り調べを受けていた。このころ、坂本殺害について旧新選組隊士に取り調べが行われたが、いずれも新選組の関与を否定した。このうち大石鍬次郎が「見廻組が実行犯である」と自供したため、今井も取り調べを受け、自供することとなった[31]。『勝海舟日記 1870年(明治3年)9月2日、今井は禁固刑、静岡藩への引き渡しという判決を受けた[33]。直接手を加えていないが龍馬殺害にかかわったこと、その後脱走して官軍に抵抗したことが罪状とされている[33]。今井の証言をおさめた口上書には「佐々木只三郎の指示により、佐々木、今井、渡辺吉太郎、高橋安次郎
背景
経緯
襲撃前の状況
襲撃
山田藤吉襲撃
龍馬への襲撃
慎太郎への襲撃
襲撃後の様子
発見
影響
実行犯
京都見廻組実行説