近江天保一揆
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに浮世の有様の原文「江州一揆」があります。

近江天保一揆(おうみてんぽういっき)は、江戸時代後期に起こった百姓一揆甲賀騒動・甲賀一揆・三上騒動・百足山騒動・天保十三年近江天保一揆などとも言う。典型的な惣百姓一揆(代表越訴型一揆と異なり、庄屋等の村役人層に指導された全村民による一揆、大規模で政治的要求を掲げた)である。天保13年10月16日((新暦)1842年11月18日近江野洲郡栗太郡甲賀郡農民が、江戸幕府による不当な検地に抗議し、検地十万日延期の証文を勝ち取った。一揆後、幕府により数万名を超える農民に対して苛烈な取り調べが行われ、土川平兵衛等指導者11名が江戸送りとなった他、千余名の一揆参加者が捕縛され、その中の多くが獄死や帰村後衰弱死したと伝えられている。これら犠牲になった人たちのことを近江天保義民(天保義民)と言う。
一揆の背景
時代背景
国内の状況

一揆が起こった天保13年(1842年)は、天保の大飢饉(天保4年(1833年) ? 天保10年(1839年))の直後で、当に飢饉により多くの人が餓死し、米価高騰や一揆・打ち壊しの姿がまだ生々しい記憶として残っていた。天保7年(1836年)だけで大小129件もの一揆・騒動があったと伝えられる[1]

代表的な一揆としては天保2年7月26日(1831年9月2日)に長州藩で起きた「防長大一揆(長州藩天保一揆・天保大一揆とも呼ばれる)」、天保7年8月14日(1836年9月24日)に天領甲斐で起きた「天保騒動(郡内騒動・甲斐一国騒動・甲州騒動とも呼ばれる)」、9月21日(10月30日)三河加茂郡挙母藩で起きた「加茂一揆」、天保9年5月22日(1838年7月13日)に天領の佐渡で起きた「佐渡一国一揆(佐渡一国騒動)」などがあるが、天保11年11月23日(1840年12月16日)庄内藩など三藩の領地替え(三方領知替え)に反発した「三方領地替反対一揆(天保義民事件)」、天保12年12月4日(1842年1月15日)に徳島藩で起きた「山城谷一揆」など、国や藩の政策を批判する一揆が起き始めていた。

農民等の一揆・騒動に加え、天保8年(1837年)には、2月19日(3月25日)大阪で、飢饉による米不足の中更なる利を求め米買占めを行う商人や、民衆の窮状を省みない役人に反発し救民を訴えた大塩平八郎による反乱(大塩平八郎の乱)が起き、6月1日(7月3日)越後柏崎では国学者生田万が貧民救済を掲げ蜂起(生田万の乱)し、天保10年5月14日(1839年6月24日)には幕府の鎖国政策を批判した高野長英等の蘭学者を捕縛した蛮社の獄が起きた。いずれも幕府や役人への批判が元といえる。
近江の状況

近江においては、天保7年8月13日(1836年9月23日)暴風雨から水田に多大な被害が生じ米価が4倍に高騰、毎日瀬田の唐橋から身投げ者が続出し、浅井郡甲津原村(現滋賀県米原市)では食料が無くなり木の根などを食べ、中毒から97名が死亡したとの記録がある[2]。同年12月(1837年1月)園城寺滋賀郡正興寺村(現大津市)にて農民が米借用を求めた騒動を起こし、天保10年11月(1839年12月)世情不安から大津町中の木戸門警備が強化された[3]。飢饉による被害から世情自体が騒然としつつあった。
諸外国の動向

国内ばかりでなく、蝦夷地へ度重なるロシア船来航から天保2年2月18日(1831年3月31日)には来航したロシア船と蝦夷地役人との間で交戦騒ぎが起こり、天保8年6月28日(1837年7月30日)にはアメリカの商船モリソン号が浦賀に表れ、浦賀奉行所が砲撃し打ち払いを行ったモリソン号事件が起きた。また、隣国では天保10年7月27日(1839年9月4日)九竜沖砲撃戦からイギリスとの間で阿片戦争が勃発し、近江で一揆が起こる直前の天保13年7月24日(1842年8月29日)清の敗北から南京条約が締結された。その後阿片戦争に勝利したイギリスが日本に軍艦サマラング号を来航させるとの情報がもたらされていた[4]
幕政改革詳細は「天保の改革」を参照

国内ばかりか日本を取り巻く環境が騒然とする中、天保12年1月7日(1841年2月27日)に幕府老中水野忠邦は、第11代将軍徳川家斉薨去を経て家斉側近を罷免し、遠山景元矢部定謙鳥居耀蔵などを登用し幕政改革に着手した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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