近未来政治研究会
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近未来政治研究会陰十四菊
略称森山派
前身政策科学研究所(旧渡辺派)
設立1998年(平成10年)11月30日[注 1]
設立者山崎拓
解散2024年(令和6年)1月25日[1]
種類自由民主党の派閥
本部平河中央ビル[注 2]
所在地東京都千代田区平河町
会員数自由民主党所属国会議員
会長森山裕
関連組織志帥会二階派)
予算78,780,338円[2]
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平河中央ビル(千代田区平河町)。近未来政治研究会が入居する

近未来政治研究会(きんみらいせいじけんきゅうかい)は、かつて存在した自由民主党の派閥

1998年11月30日政策科学研究所(中曽根派→渡辺派→旧渡辺派)から分離独立した山崎拓グループ37名によって結成され、中規模派閥として活動(山崎派→石原派→森山派)。2024年1月25日に解散した[1]

派閥結成当初は憲法改正に熱心で、過去に派閥メンバー全員で改憲論や政策集の単行本を出版した。
沿革
山崎派山崎拓

1998年自由民主党総裁選挙では山崎及び旧渡辺派山崎系の国会議員は盟友の小泉純一郎ではなく、小渕恵三を推し(旧渡辺派中曽根系は梶山静六支援)、総選挙後に誕生した小渕内閣で、甘利明関谷勝嗣の二人が労働大臣建設大臣で入閣し[3]深谷隆司総務会長に就任。当初は山中貞則が山崎の後見役として在籍していたものの、山崎と加藤紘一が小渕に対抗して1999年自由民主党総裁選挙に強行出馬したのを機に離脱した。2000年6月25日に行われた第42回衆議院議員総選挙では、現職の通産産業大臣・深谷、元文部大臣小杉隆、元経済企画庁長官船田元ら閣僚経験者、他にも井奥貞雄木村勉倉成正和が落選、衆院の勢力は9人減った[4]

一方で、1993年6月以前は自民党清和研武村正義グループに属し離党して新党さきがけ結成し第40回衆議院議員総選挙で再選し自社さ連立政権時代に与党の政調会長同士として山崎と親交を深めた渡海紀三郎は自民党復党・国政復帰し入会した。00年11月加藤の乱では加藤派と異なり、一糸乱れぬ結束を見せつけ政界関係者を驚嘆させた。(所属衆院議員全員欠席し造反、現職閣僚の保岡興治は当初辞表提出をしたため賛成する意向だったが結果的に反対票、閣僚以外では稲葉大和のみ反対票)

小泉内閣では山崎が党幹事長副総裁として主流派入りするものの、2003年第43回衆議院議員総選挙では山崎のスキャンダルが響き落選。山崎は副総裁を辞任したが、同派の会長継続を支持され、非議員ながら内閣総理大臣補佐官に任命され、一定の政治的影響力を維持し続けた。山崎は2005年4月24日の補欠選挙で当選、政界に復帰した。

小泉政権下での急激な勢力拡大もあってか、他派閥出身者や野党からの出戻り組も少なくないが、結成以来、山崎や派閥幹部の保岡・関谷勝嗣亀井善之らベテラン議員の面倒見が良かったため、他派に比べても依然まとまりがあった。しかし、2006年自民党総裁選挙頃から、反安倍晋三志向の山崎に対して、一部が安倍支持に動くなど、派閥に綻びが出始めていた。

2007年には郵政造反組だった武田良太(元亀井派)と古川禎久森山裕(元橋本派)が入会。さらに同年12月には元党政調会長の石原伸晃(元加藤派)が入会したが、これは政界関係者から驚きを持って迎えられた。これは石原の出身である日本テレビ会長の氏家齊一郎が山崎との間を仲介したためとされている[注 3]。山崎が石原を入会させたことは、石原慎太郎を父に持ち国民的知名度が高く資金力もある石原を次期派閥領袖候補に据えることで、武部勤甘利明など山崎に反発する派内の動きを牽制し、山崎の政治的影響力を保つ目的があったとされる。一方で、石原慎太郎自身は山崎派とは関係がない[5][6][7][注 4]

北朝鮮問題については独自の動きを見せる。山崎が側近の田野瀬良太郎と訪朝した際には政府与党内から強い不満が噴出した。2008年5月の派閥会合で役員人事を一新。甘利を会長代行、石原を事務総長、山崎の腹心である木村義雄を事務総長代理、関谷を顧問に据えるなど派閥の引き締めを図った。同年には石原が総裁選に強行出馬。

2009年第45回衆議院議員総選挙では改選前の37議席から16議席へと勢力が激減した。会長の山崎も再度落選したが、派閥の存続のためにという理由で会長職を続けることになった。その後古川や武田は退会する。同年所属議員の激減による財政難から派閥事務所を閉鎖し、活動の拠点を山崎の個人事務所に移すことを決定した。

2011年6月、会長代行の甘利によって「さいこう日本」が結成された[8]
石原派石原伸晃

2012年自民党総裁選挙に石原が再び強行出馬するも安倍晋三石破茂に次ぐ3位にとどまる。その後の第46回衆議院議員総選挙に山崎が立候補せずに引退したことを受けて、2012年12月20日、山崎が派閥会長を退き石原伸晃が新会長に就任、石原派に衣替えした[9]。石原会長の実弟にあたる石原宏高も入会する。しかし、派閥幹部である甘利や田中和徳、山崎派初期メンバーであった渡海紀三朗原田義昭らが新体制に反発して派閥を離れ、選挙前には岡田広小泉昭男両参議院議員も退会して所属参議院議員が一時的にゼロとなるなど勢力は弱体化した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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