近代短歌
[Wikipedia|▼Menu]

この記事には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年10月)

この項目では、和歌について説明しています。角川学芸出版の雑誌については「短歌 (雑誌)」をご覧ください。

短歌(たんか)とは、和歌の一形式で五・七・五・七・七の五句体の歌体のこと。ただし短歌は古より詠まれている歌体であるが、この項目では明治以降の短歌すなわち近代短歌と現代の短歌について取り上げる。
目次

1 概要

2 短歌の歴史

2.1 明治・大正

2.2 昭和

2.3 戦後

2.4 平成


3 短歌の技法

3.1 定形の文字数、句数による制約

3.2 使用する表記

3.3 修辞技法


4 短歌の分類

5 脚注

6 参考文献

7 関連項目

概要

短歌は記紀歌謡や『万葉集』初期の作品にはすでに見られるもので、古今を通じ広く行われ、長歌旋頭歌が詠まれることがなくなるにつれて、和歌といえば短歌をさすようになった。五・七・五・七・七の五句体(31モーラ)の詩形は、その時代に盛んであった長い詩形との関連で呼び名が変わった。奈良時代には長歌に対して反歌としての短歌、平安時代以降は漢詩に対して和歌、明治時代後半からは新体詩に対して再び短歌と呼ばれて現在に至っている。狂歌とは文体を同にするが、定義では全く異なるものである。

和歌と近代以降の短歌は、その韻文としてのかたちは基本的には変わらぬものであるが、和歌はその中で使われたいわゆる序詞縁語、また歌枕といった修辞を重要視し、のちのちまでそれらを伝えて詠まれたのに対し、近代以降の短歌ではそういったものは原則として否定されている。すなわち前代からの和歌とは違う思想に基づいて作歌されているということである。
短歌の歴史
明治・大正

明治時代初期の歌壇は前代に引き続き、桂園派を主とする御歌所派が中心となって貴族的・伝統的な文化人たちが担っていたが、和歌改良を志す人々はその題詠による作歌・風雅な趣向を批判し、自由と個性を求める近代短歌を開いた。落合直文浅香社を結成し、主観を重視する浪漫的な短歌を目指し、与謝野鉄幹らを輩出した。明治33年(1900年)、鉄幹は『明星』を創刊し、与謝野晶子を擁して浪漫主義短歌の全盛時代を築いた。明治40年代には『明星』から出た耽美派の北原白秋、自然主義的な若山牧水、社会主義的傾向を示した石川啄木らの個性が開花した。

一方、正岡子規は明治31年(1898年)に『歌よみに与ふる書』を発表。万葉への回帰と写生による短歌を提唱して根岸短歌会を起こし、伊藤左千夫長塚節らを育てた。根岸短歌会の機関紙として明治41年(1908年)に創刊された『アララギ』からは、独自の歌風を確立してアララギ派を主導した島木赤彦や、自我を見つめて生命感ほとばしる歌を詠んだ斎藤茂吉が出た。『アララギ』は赤彦が編集を担当した大正期に歌壇主流と言っていい発展を遂げるが、よりストイックな歌風を特色とするその美学と結社的束縛は一部で反発を招き、大正13年(1924年)に古泉千樫釈迢空石原純が新雑誌『日光』の創刊に参加して『アララギ』を離脱するなど、『アララギ』の分裂を生み出す。茂吉は「写生」に「生を写す」と言う解釈をほどこし、大正15年(1926年)島木赤彦の没後は『アララギ』の編集を担い、中心人物として昭和初期にかけて活躍する。
昭和

昭和短歌の前奏曲として、大正13年(1924年)、歌誌『日光』が、『アララギ』を脱退した古泉千樫釈迢空石原純や、北原白秋前田夕暮吉植庄亮らによって創刊された。短歌結社ではなくゆるやかなサロン的結合による雑誌であったが、おのずから反アララギ的色彩を帯び、アララギ系―反アララギ系という座標軸はここから始まったといってよい。リアリズムに近い立場に立ちながら、窪田空穂松村英一らは、『アララギ』には批判的であり、英一やその門人である山本友一土屋文明系の渋谷嘉次と論争を行い、文明に代表される『アララギ』の作風のぎこちなさを批判する。

明治から試みられていた口語自由律や、石川啄木にまでさかのぼれるプロレタリア短歌の運動が起こったのも昭和に入ってからである。前者は前田夕暮の「詩歌」を中心に一大勢力となり、後者はプロレタリア文学の一環としての存在を主張するようになる。

口語派は夕暮の一門あげての定型復帰により、香川進前田透といった歌人が文語定型を排除しない方向に転じたことで、力を減じていった。

プロレタリア派は、当初、文学理論が先行し、短歌を短詩に解消するべきだという意見が有力になったり、あるいは三十一音を大幅にはみ出す作品が出たりして、国家による弾圧以前にも問題を抱えていた。

昭和3年(1928年)、新興歌人連盟が発足。口語派、シュールレアリスム派、プロレタリア派、生活派が連合して歌壇の革新に努める。前川佐美雄坪野哲久筏井嘉一らにより、後に新風十人でその美学を示した。昭和10年(1935年)、北原白秋が『多磨』を創刊。宮柊二(『コスモス』)、木俣修(『形成』)といった戦後結社につながる歌人がここから輩出する。

歌壇の一大勢力に成長した『アララギ』では、斎藤茂吉の指導を受けた佐藤佐太郎(『歩道』創刊)・山口茂吉、土屋文明の指導を受けた五味保義近藤芳美(『未來』創刊)、高安国世(『』創刊)、相澤正、樋口賢治、落合京太郎、吉田正俊柴生田稔らが育つ。
戦後

日本の敗戦から、桑原武夫『第二芸術論』など短歌否定論が大反響を呼んだが、短歌否定論に対抗し、戦後歌壇を樹立する目的の下に、昭和22年(1947年)新歌人集団という運動体が結成された。近藤芳美宮柊二などは戦後歌壇の大きな存在となるとともに、現代短歌の基盤を作っていった。

昭和23年(1948年)には、日本歌人クラブが、斎藤茂吉土屋文明釈迢空尾上柴舟佐佐木信綱窪田空穂土岐善麿前田夕暮を始めとする183名の発起人、太田丘・渡辺順三・近藤芳美・佐藤佐太郎木俣修・宮柊二・香川進ら当時の中堅歌人らによって結成され、歌壇最大の超結社団体として、現在に至るまで活発な活動を続けている。

昭和24年(1949年)には中井英夫が『短歌研究』を創刊し、葛原妙子中城ふみ子塚本邦雄寺山修司ら多くの新人を見い出した。

昭和31年(1956年)には歌人の職能的性格を持つ団体として「現代歌人協会」が、生方たつゑ扇畑忠雄・尾上柴舟・香川進・鹿児島寿蔵・木俣修・窪田空穂・近藤芳美・佐佐木信綱・佐藤佐太郎・柴生田稔・土屋文明・坪野哲久・土岐善麿・松村英一會津八一・宮柊二・山口茂吉・山本友一など62名の発起人により結成された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef