近代化
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "近代化" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年3月)

近代化(きんだいか)またはモダナイゼーション[1]とは、封建的なものを排除して物事を科学化・合理化していくことであり、具体的には産業化資本主義化・民主化などがある[2]。「近代」は一般的には、封建的時代より後の資本主義社会市民社会の時代[3][4]
近代化論

近代化論とは、1950年代から1960年代にかけて、次々に独立を遂げていった旧植民地の国々をいかに近代化させ、欧米的な意味での国民国家形成をいかに実現していくのかを論じた学問分野で、開発経済学と近接ないし重複する領域である。それは、単に経済成長のモデルではなく、政治、社会、文化、心理など人間生活のあらゆる側面において、近代化とは何か、そしてそれはいかに達成できるのかを明らかにしようとした一連の研究であった。

近代化論は、日本にも多大な影響を与えながら、特にアメリカ合衆国においては、学問と現実政治のはざまで揺れ続け、その後の社会科学の諸思潮にも長い間強い影響をおよぼした。

アメリカにおいて近代化論がそれほどまでに影響力を持った背景には、冷戦という当時の時代状況があった。つまり、開発途上国に対するソビエト連邦の影響力を最小限に食い止め、欧米的な国家を作り上げていくことこそが、近代化論の最も重要な使命とされたのである。

アメリカ合衆国においては、それゆえ近代化論は国家的なイデオロギー、さらにはアイデンティティとしての性格を持っていた。しかし、1970年代に入ると、近代化論は急速にその影響力を低下させ、精彩を欠くようになる。開発途上国の経済発展が一向に進まず、貧困が減らないことに悲観論が現れ、ベトナム戦争の敗北と、そこに見られた反米ナショナリズムの強さから、これまでの開発戦略が途上国の歴史的経験や伝統文化、経済の現状から乖離していることへの見直しが始まった。また、公民権運動に代表されるマイノリティの異議申し立てがアメリカのみならず先進各国で現れた。この時代、国際従属理論や文化帝国主義論が近代化論に代わって一世を風靡した。

一方で日本の経済成長や、それにならった韓国、台湾シンガポール香港新興工業経済地域(NIES)の経済発展は近代化の概念を揺さぶった。プロテスタントの倫理や白人優越主義はもはや誰の目にも成り立たなくなり、NIES諸国で広くみられた開発独裁は、民主化を与件としてきた近代化論への再考をせまるものであった。しかし、特にアメリカは一種の人工国家という側面から、自国のアイデンティティの一部をかたちづくっている。アメリカにおける近代化論は、それゆえ何度も論理が組み替えられ、歴史叙述における強国論や覇権の盛衰、文明論や諸文明の拮抗・対立、あるいは歴史終焉論というふうに姿を変えながらも、根強い影響を与えつづけているのである。
ラトゥールの近代化論

人類学者のブルーノ・ラトゥールは「近代」に関する言説から、近代化とは人間的な社会文化の領域と、非人間な自然界の領域を分離・独立させる「純化」のプロセスと、文化と自然を融合させハイブリッドを生成する「翻訳」のプロセスの実践であると説いた[5]。近代論者は「純化」こそが近代化であると唱え推進しているものの、水面下では常に「翻訳」が行われており、近代化されているとされる西欧社会も実際には理念通りの近代には到達していないし、今後も到達することはないと論じた。ラトゥールは近代 - 前近代という直線的な相対化に疑問を呈し、近代化の過程で生じるハイブリッドを評価することで「近代人」という虚構を脱却する、「非近代人」という立場を提唱した[5]
産業化と近代化

近代化とは、産業化を中心として、それに関連した政治的・社会的・心理的その他、さまざまな変化の総体を指す。産業化は、ニュートン科学革命以来の科学技術の成果を系統的・累積的に活用して、生産力はじめ環境をコントロールする能力を高めていく過程でもあり、その本格化は18世紀後半のイギリスに始まった。いわゆる産業革命である。やがて、その動きはヨーロッパ大陸や北アメリカに伝わり、19世紀後半から20世紀初頭にかけてはロシア東欧日本もその動きに加わって、20世紀後半には全世界を覆うこととなった[6]
18世紀

16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパでは、イタリア戦争ユグノー戦争三十年戦争など各地で戦争がつづいたが、その間、強国は領土を広げ、財政と軍備を整えて、海外に進出して、植民地を広げた。こうしたなか、新しい国際秩序ができあがった。ウェストファリア条約体制(主権国家体制)がそれであり、そこでは主権を主張する国は、宗教文化の違いをこえて対等な外交交渉をおこない、戦争のルールを定め、勢力の均衡をはかった。また、ウェストファリア条約では、神聖ローマ帝国内の各領邦は主権を認められ、オランダスイス独立も正式に承認された。
オランダの独立と勃興ウェストファリア条約(ミュンスター条約)締結の図(ヘラルト・テル・ボルフ画)

15世紀以来ハプスブルク家の所領で、カルロス1世フェリペ2世の時代を通してスペイン領となっていたネーデルラント17州では1568年より八十年戦争(?1648年)がはじまった。

16世紀前半のイギリスフランスカトリックに対するスペインの支援は混乱をまねき、属領ネーデルラントの商人や貴族のあいだにはカルヴァン派の信仰が浸透して、かれらはゴイセン(乞食)と呼ばれた。そもそもスペイン本国の産業は弱く、アメリカ大陸で獲得した富は毛織物工業で栄えたフランドルへ流出していたのである。

八十年戦争の勃発は、スペインにとって1587年無敵艦隊の敗北とともに没落の契機となった。それに代わり世界の海上権を握ったのが1581年に独立を宣言し、三十年戦争後のウェストファリア条約(1648年)で独立が正式に各国により承認されたオランダ(ネーデルラント連邦共和国)であった。

共和政をとったオランダは1602年オランダ東インド会社を設立して、ジャワスマトラモルッカを植民地とし、香料貿易をさかんにおこなって、その拠点をバタヴィアに置いた(1619年)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef