近代公娼制
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近代公娼制では、欧米その他の国において、近代化に伴い、性病の予防などの目的で実施された公娼制について記述する。目次

1 近代公娼制の設立目的と経緯

1.1 性病対策としての近代公娼制


2 各国の近代公娼制

2.1 フランス

2.1.1 フランス軍の慰安所


2.2 プロイセン

2.3 イギリス

2.4 アメリカ

2.4.1 売春禁止運動

2.4.2 アジア系外国人・娼婦排斥運動


2.5 植民地

2.5.1 植民地インド

2.5.2 植民地フィリピン

2.5.2.1 アメリカン・プラン



2.6 日本

2.6.1 明治時代以降の公娼制

2.6.1.1 公娼取締規則・娼妓取締規則



2.7 朝鮮

2.7.1 日本の遊郭業の進出から近代公娼制の確立

2.7.1.1 遊郭業者・女衒の手口


2.7.2 日本統治下の公娼制

2.7.3 日本統治終了後の朝鮮半島南半分の公娼制



3 公娼の廃止に向けた取り組み

3.1 植民地公娼制


4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

近代公娼制の設立目的と経緯

18世紀のヨーロッパでは売春が盛んになり、私生児も増加したため[1]、1724年には医師バーナード・デ・マンデヴィルが書いたと伝わる『公営売春宿擁護論』(A Modest Defense of Publick Stews)が刊行され、自由売春や私的な売春にまつわる病気などの様々な弊害は、売春を公認することですべて解決できると主張し、公認売春宿の詳細な計画を発表した[2]

産業革命期以降、ヨーロッパでは娼婦登録制による売春公認政策がとられ、1795年のベルリンでの登録娼婦は257人、1820年のパリでの登録娼婦は2800人だった[3]。しかし非登録の私娼も多く、1843年頃の調査ではロンドンに9万人、パリに3万人、ベルリンに1万人の娼婦がいた[3]。1860年のロンドンでは30万人の娼婦がいたとされる[4]

藤目ゆきは近代公娼制度を「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」と定義したうえで、近代公娼制度はフランス政府で確立し、その後ヨーロッパやイギリス、日本にも導入されたと指摘している[5]。藤目はフランスを「公娼制度の祖国」と評している[6]

秦郁彦も、近代公娼制が始められたのは性病対策がきっかけであったとし、ナポレオン軍陸軍大臣ラザール・カルノーは軍隊についてくる売春婦と男性兵士における風紀の退廃と性病の蔓延について悩んだが、ナポレオン軍は性病を欧州中に広めたとした[7]。1901年に軍医の菊池蘇太郎も「軍隊ニオケル花柳病予防法」で、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたとしている[8]
性病対策としての近代公娼制

近代公娼制は、性病対策と軍隊慰安によって設置され、フランスで確立し、その後ヨーロッパ、アメリカ合衆国や日本にも導入された[5]1802年、フランスで警察による公娼登録が開始された[9]。1828年にはフランス風紀局衛生課が設置され、検診で性病の見つかった娼婦は病院に送られ、治療後、売春業の許可がおりるという体制になった[10]。18世紀末に梅毒が流行し、ナポレオン戦争による大規模の人の移動のため性病がヨーロッパ中にひろがったが、同時に医学研究もすすんだ[11]。プロシアでは一旦廃止されたあと1851年に性病予防のために公娼制度が軍によって再開され[9]、風紀警察が特別に設置された[12]。イギリスはクリミア戦争の際の性病問題に対してイギリス軍の提案[13] で1864年から1869年にかけての伝染病(性病)法によって公娼制度が導入され[9]、警察が娼婦とみなした女性を逮捕し、検診を強制できるようになり、性病に感染していない場合は娼婦(公娼)として正式に登録された[13]。1873年、ウィーン国際医療会議で売春統制を各国共通にするための国際法が提案された[9]

日本の公娼制は年季奉公の一形態として発展し、徳川幕府に認可された遊郭が形成されていた。明治維新後は、1872年のマリア・ルス号事件を契機に芸娼妓解放令と人身売買禁止令を出したが、遊郭は人身売買を糊塗した貸座敷制度の中で存続するようになった[14][15]。1880年代国内では遊郭、貸座敷業者、娼妓の数が倍増し、その後1924,5年まで増え続け、軍の連隊駐屯地などに遊郭が新設されている[15]。1900年の大審院判決「娼妓廃業届出書に調印請求の件」 によって自由廃業運動が盛んになり[14]、同年娼妓取締規則が制定。娼妓の年齢を18歳以上とした(従来は15 - 16歳)。1904年に欧州で「醜業を行わしむるための婦女売買取締に関する国際協定」が締結され[16]、1910年には「醜業を行わしむるための婦女売買禁止に関する国際条約」が締結された[16]

1876年に開国した李氏朝鮮の日本人居留地に日本の遊郭も開業し、1881年以降は貸座敷業者と芸娼妓の営業規則が定められ、営業許可証の取得、課税も開始された[17]1885年の京城領事館達「売淫取締規則」によりソウルでの売春業は禁止された[18]。しかし、日清戦争後(1895年以降)は料理店での芸妓雇用が公認(営業許可制)され[18]、釜山、ソウル、鎮南浦等で遊郭が再び形成された[17]

韓国併合以降朝鮮にも公娼制度が導入され[19]、1916年には朝鮮で娼妓年齢下限が内地より1歳低い17歳未満に設定された[18]。1905年の日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降、朝鮮での日本の売春業者が増加した[17][18]


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