近代における世界の一体化
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世界の一体化

近世
大航海と征服・植民地化の時代
近世から近代にかけて
イギリス覇権の確立
近代
二重革命とパックス・ブリタニカ
近代から現代にかけて
2度の大戦と米国の覇権
現代
多極化の時代
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フランス人権宣言

近代における世界の一体化(きんだいにおけるせかいのいったいか)では、18世紀後半から19世紀前半にかけての、のちに産業革命と呼ばれる時代とイギリスによる覇権が確立した「パックス・ブリタニカ」の時代について取り扱う。

ゆっくりではあるが、世界は大きな変貌を遂げていた。そしてこの変貌は、18世紀後葉のアメリカ独立宣言フランス革命とを合わせて、世界史における近代化の始まりとみなされている。後二者が政治や思想における近代の画期であるならば、産業革命は経済と社会における重大な画期だったといえる。イギリスでは一連の技術革新が生産の場で実用化され、その影響は世界に及び、19世紀前半までに世界資本主義システムが確立していった。産業革命とは、生産力の革新であると同時に、それにともなう社会の根本的な変化だった。なお、近年、18世紀後半から19世紀前半にかけてのイギリス産業革命と米仏の市民革命を総称して二重革命と呼称することがある。
産業革命とその影響詳細は「産業革命」および「近代化」を参照
イギリス産業革命ワットの改良蒸気機関リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の開通式(1830年)

イギリスでは大航海時代以来の大西洋三角貿易によって国内の資本蓄積が進み、第2次囲い込みによって農村から流入した労働力と「プロト工業化」と称される農村の工業化によって、その産業構造は産業革命の進展を支えるほどに醸成されていた。本来的工業化に先立つ16世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ各地における各種織物を中心とした手工業生産の展開のこと。農村家内工業と都市商業資本とが共生し、地域外ないし海外市場向けの生産がなされ、商業的農業地域の発展とのパラレルな関係、あるいは独自の人口動態などを特徴とする。日本にも「プロト工業化」に相似する現象はあるものの人口動態の面ではフランドル地方とは異なる様相を呈することが指摘されている。

毛織物工業などによる資本の蓄積が大西洋三角貿易によって加速すると、マニュファクチュア的工業生産にも技術革新が要求された。ダービー父子のコークス製鉄法やジェームズ・ワットによる蒸気機関の改良などがそれである。また、1764年ハーグリーブスジェニー紡績機1769年リチャード・アークライトの水力紡績機、1779年のクロンプトンミュール紡績機など、相次いで紡織機の改良がなされた。ミュールとはラバ(馬とロバの雑種)のことで、ジェニー紡績機と水力紡績機の両方の長所を取り入れたという意味である。

イギリスで産業革命が始まった要因として、通常は、原料供給地および市場としての植民地の存在、ピューリタン革命や名誉革命による政治的ないし法的な環境、蓄積された資本ないし資金調達が容易な環境、金融経済の発達および農業革命によってもたらされた労働力などが挙げられる。

ただし実際には、これらの条件の多くはフランスでも大差がなかったという見方もある。決定的に違うものがあるとすれば、それは植民地の広がりだという。イギリス産業革命は1760年代に始まるとされることが多いが、七年戦争(北米ではフレンチ・インディアン戦争)が終結し、アメリカやインドにおけるイギリスの優位が決定づけられたのは1763年パリ条約だった。植民地自体は以前から存在していたので、1763年の時点でイギリスが一挙に市場や原料供給地を得たというよりは、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場、および原料供給地を失ってしまったという見方が可能である。その意味で、大西洋経済こそ産業革命の生みの親だった。

いずれにせよ、イギリスはフランスに先んじて産業革命を開始し、一体化しつつあった地球上の他の全ての国々に対し、一定の有利な位置を占めることとなった。イギリスは「世界の工場」と呼ばれ、やがて後世「大英帝国」と称される覇権国家となった。
イギリス産業革命の影響リチャード・トレヴィシック1801年に開発した蒸気自動車「パッフィング・デビル号」

産業革命によって、多くの人びとは農業すなわち食糧生産から離れ、第2次産業第3次産業に従事するようになったため、社会的分業と都市化は急激に進展していった。工場の周囲は市街化し、工業都市には労働者があふれた。第二次囲い込みは合法的におこなわれた。また急激な経済社会の変革は、過酷な労働条件、貧富の差、劣悪な衛生問題、さらには犯罪の増加をももたらした。これらは、のちにサン・シモンシャルル・フーリエカール・マルクスなど社会主義の諸思想を生み出す背景ともなっていった。

また、蒸気機関車蒸気船などの交通革命によって、人、モノ、情報の流通はさらに活発となって世界の一体化はいっそう促進された。資本主義の担い手だった市民階級アダム・スミスが『諸国民の富』でとなえた自由放任主義を支持し、規制撤廃と政治改革を進めた。自由主義が19世紀をみちびく思想となった。

これに対し、旧来の支配者だった地主貴族やイギリスに出遅れた他の諸国も対応にせまられた。1800年段階で、世界の工業生産に占める割合はイギリス35パーセント、フランス29パーセント、ドイツ諸国9パーセント、ロシア2パーセントで、その他はすべてを合わせても25パーセントにすぎなかった。

アイルランドインドのように、かつて豊かな文化をもちながらも18世紀から19世紀半ばにかけて国家主権を確立できなかった地域はイギリスの植民地に転落し、そのうえ伝統的な産業でイギリスの工業と競合した部分は解体され、原料供給地と化した。ラテンアメリカアフリカの諸地域の場合は、主権は維持できたものの経済的には完全にイギリスおよび西ヨーロッパの需要に従属するしかなかった。

このように、近代の始まりは、近代化にともなう諸問題の始まりをも意味していた。なお、イギリス以外の諸国の産業革命については、産業革命の広がりとイギリスの繁栄の項で詳述する。
アメリカの独立詳細は「アメリカ合衆国の独立」、「アメリカ独立戦争」、および「アメリカ独立戦争におけるフランス」を参照ボストン茶会事件を描いたリトグラフ

フレンチ・インディアン戦争で勝利したイギリスは、1763年宣言アパラチア山脈を越えてのアメリカ人の進出を規制した。これが、「イギリス人」として戦争に協力した植民地人の怒りを買うこととなった。また、イギリスは戦費支出の増大による財政難から、それまでの「有益なる怠慢」と呼ばれる緩やかな植民地支配から厳しい産業統制に転じ、砂糖法(1764年)、印紙法(1765年)などを施行して13植民地に対する課税を強化した。これに対し、イギリス議会に代表を持たない植民地議会は「代表なくして課税なし」ととなえて抵抗し、一連の税法を廃止に追いこんだ。しかし、イギリス議会は1773年に東インド会社に茶取引を独占させる茶法を制定したため、植民地側の不満が頂点に達し、インディアンに扮した植民地人が、ボストンに入港したイギリス船内の茶を海に投棄するボストン茶会事件が起こった。イギリス側はボストン港閉鎖などでこれに対処したため、1774年、13植民地は大陸会議を開いた。

1775年、両者はついにレキシントン・コンコードの戦いで武力衝突し、植民地軍はジョージ・ワシントンを総司令官に選んでアメリカ独立戦争に突入した。当初、独立軍(パトリオット)は劣勢だったが、トマス・ペインが『コモン・センス』でアメリカ独立を訴えてベストセラーとなり、トマス・ジェファソンらの起草による『アメリカ独立宣言』が採択されると独立支持が多数となった。ベンジャミン・フランクリンはパリの社交界を中心に外交交渉を進めてヨーロッパ諸国の支持を集めることに成功し、サラトガの戦い以後は戦局も有利に進んで1781年ヨークタウンの戦いにも勝利すると、国際的孤立を怖れたイギリスは1783年パリ条約を結んでアメリカ合衆国の独立を承認した。

アメリカ独立の思想はヨーロッパの啓蒙思想から多く影響を受けており、独立宣言にはジョン・ロックの影響が強く見られる。共和制民主主義を旗印に進めば、対立する王党派を追い落とすことができるという読みがあったと考えられる。独立の達成後、1788年アメリカ合衆国憲法の発効、翌年の権利章典の可決(1791年発効)によって、アメリカは世界における民主主義の旗頭の道を歩み始め、また人権においても常にオピニオン・リーダーたらんとするようになった。

パリ条約でフランスは、ユトレヒト条約と1763年のパリ条約とで失った領土のうち、トバゴ島セントルシアセネガル川領域、ダンケルク、またインドの領地を回復した。フランスの介入は遠距離を対象とし、かつ海軍力を駆使したものだったため膨大な戦費が使われた。フランスの国家財政は悲惨な状態となり、一方でジャック・ネッケルの財政改革のため、景気も一時著しく後退していた。ネッケルの後任となった国家財政担当官カロンヌは、赤字解消のために貴族や聖職者の財産に税金をかけることを試みたが、解職され追放された。これは、やがて来たるフランス革命の伏線となる。この戦争は、フランスをヨーロッパの主導者としての役割を復権させた。しかし、フランスは多額の軍事費にもかかわらず、合衆国の主要貿易相手国とはならなかった。また、独立戦争に参加したラ・ファイエットらが革命的気運を波及させた。

イギリスにとって植民地アメリカの喪失という経験は、イギリス帝国のあり方を変貌させた。1783年パリ条約後の第二次帝国は、1763年のパリ条約後の第一次帝国とはまったく異なる性格の空間となった。第一次帝国が「プロテスタントの帝国」と呼びうる性格を持っていたのに対し、第二次帝国はもはやそう呼ぶことは不可能となった。1807年、帝国内の奴隷貿易を廃止し、1833年には奴隷制度が完全に廃止された。第二次帝国は、「自由貿易の帝国」、そして、奴隷をはじめ、苦境に陥った現地の人びとを救う「慈悲深い博愛主義の帝国」として振る舞う[1] ようになり、その姿は1830年代に明瞭に示されることとなった。

アメリカの独立は、世界的にみれば、啓蒙思想を具現化した史上初の民主主義国家の建設と社会改革による市民的自由および権利の確立という大きな意義を有している。ロックの思想を根拠としたアメリカ独立宣言の発表は、諸民族の独立運動、とくにラテンアメリカ諸地域の独立運動を鼓舞し、また、この戦争に参加したコシューシコによってポーランド分割に対する抵抗運動が始まった。
フランス革命とナポレオン戦争詳細は「フランス革命」、「フランス革命戦争」、「フランス革命の年表」、「ナポレオン・ボナパルト」、および「ナポレオン戦争」を参照「バスチーユ襲撃」

1789年7月14日バスティーユ牢獄の襲撃をもって始まるとされるフランス革命は、国内事情からみれば、絶対王政のもとで依然として身分制領主制を存続させていたアンシャン・レジームに対し、経済的に上昇しつつあったブルジョワジーや重税にあえぐ民衆や農民が強い不満をいだくようになって生じたできごとである。


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