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世界の一体化
近世
大航海と征服・植民地化の時代
近世における世界の一体化(きんせいにおけるせかいのいったいか)では、16世紀から17世紀にかけての世界が一体化する過程について言及する。16世紀には、ユーラシア大陸では東から明、サファヴィー朝、オスマン帝国の3つの帝国が鼎立しバーブルによるムガル帝国の建国(1526年)、さらに、ロシアではモスクワ大公国が、ドイツではハプスブルク家がそれぞれの地域で台頭し始めていた時代であった。
一方、早期にレコンキスタを終了させていたポルトガルを皮切りに、西ヨーロッパ諸国は、次々と大西洋へと乗り出していった。1492年のコロンブスのサン・サルバドル島到達、1498年のヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰到達は、これまでの貿易構造を大きく変化させる原因となった。
ユーラシア大陸の繁栄詳細は「明」、「ムガル帝国」、「サファヴィー朝」、および「オスマン帝国」を参照1453年、コンスタンティノープルに入城するメフメト2世
東アジアでは明が国際秩序の中心にあり、前世紀に比べれば翳りがみられるものの経済も繁栄し、朝鮮王国や琉球王国は明の冊封体制下で政治的安定をみていた。日本では織田信長と豊臣秀吉によって国内の統一が進展。北ユーラシアでは、イヴァン4世(雷帝)が「全ロシアのツァーリ(皇帝)」を称して、モスクワ大公国からロシア・ツァーリ国へと脱皮した。
南アジアのムガル朝、イラン高原を本拠とするサファヴィー朝、アナトリア西部に誕生したオスマン帝国は、いずれもトルコ系遊牧騎馬民の軍事力を背景にして建国し、土着化し、勢力を伸ばしたイスラーム王朝であり、それぞれ政治的に安定し、文化が栄え、その首都は繁栄した。そこにはまた、それぞれの豊かな物産を求めて多くの外国商人も訪れていた。なかでもオスマン帝国は1453年、千年以上続き難攻不落とされた東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(イスタンブール)を陥落させたのち急速に領土を拡大した。スレイマン1世治下の1529年にはハンガリー平原をこえてウィーンを包囲し、その晩年には西アジア、北アフリカ、バルカン半島にまたがる大帝国となって、ヨーロッパのキリスト教世界に恐怖をあたえた。その一方、スレイマン1世は1536年にフランスのフランソワ1世に恩恵としてカピチュレーションを与えた。オスマン帝国は1579年、エリザベス1世治下のイングランドにもカピチュレーションを与えている。
ルネサンスの時代をむかえていたヨーロッパは、繁栄するアジアに豊かな物産を求め、地中海域の東半を支配したオスマン帝国の領土をさけて大西洋に新しい航路を求めた。
大航海時代詳細は「大航海時代」および「コンキスタドール」を参照1492年、イスパニョーラ島に上陸するコロンブス
アジアの物産のなかでも、十字軍以来イスラーム世界を通じてヨーロッパに知られ、高緯度地方の長い冬の食肉保存と味付けに必要となっていった香辛料は人びとに渇望された。当時の香辛料はきわめて高価で、同じ重さの銀と交換されるほどだったという。
ルネサンス期のイタリアでは地理学や天文学に関する知識が急速に広まり、帆船、羅針盤、火砲についても、その実用化が進展していた。航海術も発達した。また、1494年ルカ・パチョーリはその著『スムマ』のなかで複式簿記を紹介しており、それ以後、ヨーロッパ各地で広く行われるようになった。
一方、かつてイスラーム勢力の支配下にあったイベリア半島はキリスト教徒による再征服事業(レコンキスタ)が1492年をもって完了し、ポルトガルとスペインの王や貴族たちは競って海外に進出し、キリスト教の布教に熱心に取り組んだ。
大西洋からアフリカ西岸を大陸づたいに南下し、喜望峰を経由してインドのカリカットに到達したポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマ、スペイン女王イサベル1世の後援により大西洋を横断してサン・サルバドル島に到達し、のちにアメリカ大陸の「発見」者と呼ばれたクリストファー・コロンブス、自身はポルトガル人だったがスペイン王カルロス1世の支援をうけて人類最初の世界周航をなしとげたフェルディナンド・マゼラン(フェルナン・デ・マガリャンイス)一行などの活躍したこの時代を、大航海時代と呼んでいる。
当時の南北アメリカには、先史時代にアジアからベーリング海峡を渡った人々が独自の文明を発達させ、15世紀にはインカ帝国、アステカ王国や都市マヤパンが栄えていた。