近世から近代にかけての世界の一体化
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世界の一体化

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近世から近代にかけての世界の一体化(きんせいからきんだいにかけてのせかいのいったいか)では、18世紀前半の世界の一体化の動きについて詳述する。この時代は、ヨーロッパアフリカ、南北アメリカ大陸では三角貿易が完成し、ヨーロッパでは中世の生活習慣が大きく一変した時代でもあった。

一方、アフリカ大陸では奴隷貿易によって人口が激減し経済・社会が疲弊した。また、南北アメリカ大陸ではイギリスフランススペインオランダポルトガルにおける植民地化が確立した。このことにより、各国間の対立が目立ち始めた時代でもあった。その中で、イギリスとフランスが覇権をめぐって争う時代へ突入していった。

一方、康熙帝雍正帝の時代を迎え、全盛期を迎えつつあった。また、前世紀に君臨していたオスマン帝国サファヴィー朝ムガル帝国のイスラーム3帝国は徐々に衰退していった。これらアジア諸国とヨーロッパ諸国は、衝突と交易を交互に繰り返しながらも、一体化が進み始めていった。
奴隷貿易の進展とその影響詳細は「三角貿易」を参照大西洋三角貿易

16世紀以降、ヨーロッパ商人が奴隷貿易に進出すると3世紀の間に約1,000万人の黒人が奴隷として売られたと推定され、アフリカは唯一、人口が減少した大陸となった。なかでも1701年から1810年の間には600万人を越す黒人が大西洋を渡った。奴隷船(slave ship)には乗せられるだけの奴隷が乗せられ、栄養失調チフスで多くの奴隷が死に、海へ投げ捨てられた。奴隷船は遠くからも汚臭を放ち、近くには海にうち棄てられる遺体をめあてにしたサメが泳いでいたという。絶望のあまり自殺する者がでたり、反乱がおこることもあった。奴隷狩りや輸送中での死亡者数を加えると数千万人が故郷から引き離されたと考えられる。アフリカは深刻な労働力不足に陥り、その後の開発が遅れた一因となった。

西インド諸島では、砂糖のモノカルチャーのため、食糧輸入が途絶えると飢饉となって餓死者が出た。欧米の砂糖需要に左右され、その政治・経済は完全に西ヨーロッパに従属した。

ここに至って、ヨーロッパ西アフリカ西インド諸島の3地域を頂点とし、にあたる貿易ルート特定の海流に乗った一方通行となる大西洋三角貿易が構造化した(ルートは下記参照)。三角貿易の構造化により、北米植民地では、ラム酒製造や造船業、海運業などが発達し、ニューヨークなどの港湾都市が栄えてアメリカ独立の資金源となっていった。
ヨーロッパからは、毛織物・ラム酒・武器が、カナリア海流に乗って 西アフリカへ。

西アフリカからは、奴隷(“黒い積み荷”)が、南赤道海流に乗って 西インド諸島などへ。

西インド諸島などからは、砂糖(のちには綿も)(“白い積み荷”)が、メキシコ湾流北大西洋海流に乗って ヨーロッパへ。

イギリスは、1713年ユトレヒト条約で独占的奴隷供給権を獲得し、砂糖貿易とともに莫大な利潤を得た。奴隷貿易で栄えたリヴァプールブリストルの港湾都市には資本が蓄積され、その後背地にあたるマンチェスターバーミンガムは、産業革命の時代には工業都市として発達することとなる。
生活革命

18世紀には、茶・砂糖・コーヒー・綿織物など植民地やアジアからの輸入品が市民にも広まっていった。これを、生活革命と呼んでいる。
コーヒーハウスと喫茶の普及詳細は「コーヒー・ハウス」、「紅茶」、および「陶磁器」を参照

ヨーロッパ最初のコーヒー・ハウスは、1650年、イングランドのオックスフォードユダヤ人が開いたものだといわれる。その後、ロンドンにもコーヒー・ハウスが開店し、王政復古(1660年)やロンドン大火(1666年)を経て増加し、18世紀初頭のロンドンには3,000軒を越すコーヒー・ハウスがあったという。客は男性ばかりで、は出さず、コーヒーやたばこを楽しみながら、新聞雑誌を読んだり、客同士で政治談議や商談、世間話をした。シノワズリ(ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ、1757年)

コーヒー・ハウスでは情報交換もさかんにおこなわれ、ジャーナリズムが発展する温床のひとつともなっていった。『ロビンソン・クルーソー』の著者ダニエル・デフォー1704年に新聞『レヴュー』を発行し、近代ジャーナリズムの火付け役となっている。また、「ロイズ・コーヒーハウス」には、船主たちが多く集まり、店では船舶情報を掲載した「ロイズ・ニュース」を発行していた。やがて、店で船舶保険業務を取り扱うようになり、これが保険会社ロイズの起源とされる。その他、文芸評論の場となったり、科学協会や政党の集会場もコーヒー・ハウスにおかれ、ここでは市民文化がはぐくまれることとなった。

一方、茶は、トマス・トワイニングが1706年、「トム・コーヒーハウス」を開業するかたわら、家庭でも喫茶できるよう茶葉の小売りを開始して、喫茶の大衆化をすすめ、1717年にはイギリス最初のティー・ハウス「ゴールデン・ライアンズ」を開いた。

これに伴い、砂糖消費が増え、中国製ならびに日本製陶磁器の需要も増加した。18世紀中葉のシノワズリの流行も陶磁器装飾をはじめとする中国の文物に触発されたものだった。陶磁器の需要増加に伴い、ヨーロッパ各地で陶磁器を生産するようになっていった。ドイツのザクセンマイセンを皮切りに、イギリスではジョサイア・ウェッジウッドが陶器製造業者として王室や上流階級向けの贅沢な茶器を製作するようになった。ウェッジウッドは、1766年に国王ジョージ3世の王妃シャーロットからの称賛を浴びて「王室御用達」の陶工として認められ、その作品に「クイーンズウェア」と命名することを許された。その一方、産業革命勃興期にあたっていたことから、機械動力を駆使して大量生産による廉価な実用品も開発、販売して茶器の大衆化に努め、実業家としても成功を収めた。
綿織物の普及

ヨーロッパにおける宮廷文化の発達と市民階級の台頭によって、保湿・吸水性にすぐれ、肌ざわりもよく、安価で装飾に適した綿織物の人気は上昇していった。とくにインド産綿織物は染色が容易で柔らかく、丈夫だったため、世界各地から求められ、18世紀のヨーロッパに「ファッション革命」をもたらしたといわれる。いかに木綿の原料を入手するか、あるいは、いかに綿製品を安価に大量に生産するかをめぐる競争や抗争は、18世紀以降の世界史を大きく動かしてきた。18世紀のインドにおけるカーナティック戦争をはじめとする英仏間抗争、アメリカ南部での綿花プランテーションの開始、イギリス産業革命における技術革新などはそのような歴史事象の例である。
啓蒙の世紀詳細は「啓蒙思想」および「百科全書」を参照

17世紀の科学革命の成果を受け、18世紀には合理的な思考を自然のみならず社会にもあてはめ、理性に絶対の信頼をおいて、非合理的なものを批判する啓蒙思想がフランスを中心にひろまった。ダランベールディドロらによってパリで発行された『百科全書』は啓蒙の集大成であり、当時の先端科学からアジアの情報までふくまれていた。

フランスでは、『哲学書簡』のヴォルテール、『法の精神』のシャルル・ド・モンテスキュー、『社会契約論』・『人間不平等起源論』のジャン=ジャック・ルソーらによる啓蒙思想が、絶対主義や宗教の非合理的な面を批判する下からの変革の思想となった。

これに対し、ドイツやロシアでは富国強兵をめざす絶対主義君主が「上からの近代化」をおしすすめるために啓蒙思想を利用した。このような君主を啓蒙専制君主という。


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