迅衝隊
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迅衝隊(前列左から伴権太夫板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田清廉吉本平之助。 後列、片岡健吉真辺正精、西山 榮、北村重頼、別府彦九郎)

迅衝隊(じんしょうたい)は、戊辰戦争における御親征東山道先鋒総督軍(土佐藩兵)の主力部隊[1]

1868年(慶応4年)1月6日に編成され、1870年明治3年)11月藩命により解散。隊士総数は約600名。乾退助(のちの板垣退助)が軍制改革を行い編成した土佐藩「士格別撰隊」を起源とする。実質的には板垣退助を主将とし、上士勤王派の諸士、旧土佐勤王党員ら土佐藩内で勤王の志の強いもの達で構成された[1]。これとは別に土佐藩上士で構成された「胡蝶隊」という部隊もある[1]
結成までの経緯
薩土討幕の密約の締結薩土討幕之密約紀念碑
密約が締結される前段階として京都東山「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園中岡慎太郎

慶応3年5月21日(1867年6月23日)、中岡慎太郎の仲介を経て小松清廉邸で薩摩藩西郷隆盛吉井友実小松清廉らと土佐藩乾(板垣)退助谷干城毛利恭助中岡慎太郎らが会談し、薩土討幕の密約(薩土密約)が結ばれる[2]
土佐藩の軍制改革

5月22日(太陽暦6月24日)に、乾はこれを山内容堂に稟申し、同時に勤王派水戸浪士を江戸藩邸に隠匿している事を告白し、土佐藩の起居を促した。容堂はその勢いに圧される形で、この軍事密約を承認し、退助に軍制改革を命じた。土佐藩は乾を筆頭として軍制改革・近代式練兵を行うことを決定。薩摩藩側も5月25日(太陽暦6月27日)、薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。同日、土佐藩側は、福岡孝弟、乾退助、毛利吉盛谷干城、中岡慎太郎が喰々堂に集まり討幕の具体策を協議[3]5月26日(太陽暦6月28日)、中岡慎太郎は再度、西郷隆盛に会い、薩摩藩側の情勢を確認すると同時に、乾退助、毛利吉盛、谷干城ら土佐藩側の討幕の具体策を報告した[4]5月27日(太陽暦6月29日)、乾退助が山内容堂に随って離京。土佐へ向かう。離京にあたり乾は、中岡慎太郎らに大坂でベルギー製活罨式(かつあんしき)アルミニー銃(英語版)(Albini-Braendlin_rifle)300挺[5]の購入を命じ、6月2日(太陽暦7月3日)に土佐に帰国した。中岡は乾退助の武力討幕の決意をしたためた書簡を、土佐勤王党の同志あてに送り、土佐勤王党員ら300余名の支持を得ることになった。(これがのちの迅衝隊の主力メンバーとなる[1]
旧土佐勤王党員らを赦免

6月13日(太陽暦7月14日)、土佐藩の大目付(大監察)に復職した乾は「薩土討幕の密約」を基軸として藩内に武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし安岡正美島村雅事ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。これにより、七郡勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断した[2]

6月16日(太陽暦7月17日)、乾退助が町人袴着用免許以上の者に砲術修行允可(砲術修行を許可する)令を布告[2]

6月17日(太陽暦7月18日)、小目付役(小監察)谷干城を、御軍備御用と文武調(ととのえ)役に任命[2]
銃隊を組織し近代式練兵を行う

7月17日(太陽暦8月16日)、中岡慎太郎の意見を参考にした乾退助によって土佐藩銃隊設置の令が発せられる[2]

7月22日(太陽暦8月21日)、乾退助は古式ゆかしい北條流弓隊は儀礼的であり実戦には不向きとして廃止し、新たに銃隊編成を行い、士格別撰隊、軽格別撰隊などの歩兵大隊を設置。近代式銃隊を主軸とする兵制改革を行った。さらにこの日、中岡慎太郎が、土佐藩大目付(大監察)・本山茂任(只一郎)に幕府の動静を伝える密書を送る[6]。(前文欠)又、乍恐窃に拝察候得者、君上御上京之思食も被爲在哉に而、難有仕合に奉存候。然此度之事、御議論周旋而己(のみ)に相止り候得者、再度上京の可然候得共、是より忽ち天下之大戰争と相成候儀、明々たる事に御座候。然れば、實は上京不被爲遊方宜敷樣相考申候。斯る大敵を引受、奇變之働を爲し候に、本陣を顧み候患御座候而は、少人數之我藩別而功を爲す事少かるべしと奉存候。乍恐、猶名君英斷、先じて敵に臨まんと被爲思召候事なれば、無之上事にて、臣子壹人が生還する者有之間敷に付、何之異論可申上哉、只々敬服之次第也。此比長藩政府之議論を聞に、若(し)京師(に)事有ると聞かば、即日にても出兵せんと決せり。依て本末藩共、其内令を國中に布告せり。諸隊、之が爲めに先鋒を争ひ、弩を張るの勢也との事に御座候。右者、私内存之處相認、御侍中并、乾(退助)樣あたりへ差出候樣、佐々木樣より御氣付に付、如此御座候。誠恐頓首。

(慶應三年)七月廿二日、(石川)清之助。
本山(只一郎)樣玉机下。
匆々相認、思出し次第に而、何時も失敬奉恐謝候[6]

中岡は本山宛の書簡に「…議論周旋も結構だが、所詮は武器を執って立つの覚悟がなければ空論に終わる。薩長の意気をもってすれば近日かならず開戦になる情勢だから、容堂公もそのお覚悟がなければ、むしろ周旋は中止あるべきである」と書き綴っている[6]

7月27日(太陽暦8月26日)、中岡慎太郎が、長州奇兵隊を参考として京都白川の土佐藩邸に陸援隊を結成。

8月6日(太陽暦9月3日)、乾退助は東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告[2]。長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報(誤報であったが)があったため、阿波経由で英艦が土佐に向かうこととなり、英公使・ハリー・パークスが乗る英艦バジリスク号が、土佐藩内の須崎に入港。土佐藩は不測の事態に備え、乾退助指揮下の諸部隊を砲台陣地、および要所の守備に就かせた。

8月7日(太陽暦9月4日)から翌8月8日(太陽暦9月5日)にわたり、須崎港内に碇泊した土佐藩船・夕顔丸の船上で、長崎英水夫殺害事件の談判が開かれる。土佐では主に後藤象二郎が交渉を行い、前藩主・山内容堂がパークスと会見した。関係者との協議でイカルス号水夫殺害事件における土佐藩や海援隊への嫌疑が晴れる。
大政奉還論による影響山内容堂

8月20日(太陽暦9月17日)、山内容堂後藤象二郎の献策による大政奉還を幕府へ上奏する意思を示す[7]


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