辻谷耕史
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この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2017年4月)

つじたに こうじ
辻谷 耕史
プロフィール
本名辻谷 耕史
(つじたに やすふみ)[1][注 1]
性別男性
出身地 日本東京都小平市[3]
死没地 日本・東京都
生年月日 (1962-04-26) 1962年4月26日
没年月日 (2018-10-17) 2018年10月17日(56歳没)
血液型AB型[4]
職業俳優声優音響監督ナレーター
事務所フリー
配偶者渡辺久美子
公称サイズ(時期不明)[4]
身長 / 体重171 cm / 68 kg

声優活動
活動期間1986年 - 2018年
ジャンルアニメゲーム吹き替えナレーション
デビュー作『あいつとララバイ[5]
俳優活動
ジャンル舞台
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

辻谷 耕史(つじたに こうじ[注 2]1962年4月26日[3][4] - 2018年10月17日[7])は、日本男性俳優声優音響監督[8][9]ナレーター[10]東京都小平市出身[3]。妻は声優の渡辺久美子[11]
生涯
生い立ち

父は以前は詩人志望で趣味で文芸同人誌を出していた公務員であり、母は美術関係の学校出身である[12]

子供の頃から運動が得意で、運動会では花形で小学6年生の運動会では100m走とマラソンで学年1位で、共に学校新記録を樹立していた[3][13]。昔は野球少年だったが、小学生の頃に野球で指を骨折[12][14]

小学4年生の時に音楽の授業でヨハン・ゼバスティアン・バッハの『G線上のアリア』を聴いて最初に芸能の世界に興味を持つ[12]

その後、ピアノを習い始めたが、前述のとおり、野球少年でよく突き指をしたりし、ピアノは1年で断念した[14]

小学5年生の夏休みに新聞配達をして手軽に弾けるギターを買った[14]

小学6年生の時に初めてバンドを組んで中高時代はサッカー部に入りながらバンド活動は続けて将来の夢はバンドマンだった[14]。その時は前述のとおり、指を骨折し、左手の中指が少し曲がっていたが、日常生活には全く問題なかった[12]。ギターを弾き始めてから指の動きが気になるようになり、「どんなに頑張っても仕事としてやっていくのは無理だろう」と思っていたという[12]。あまり記憶が確かではないが、小学6年生くらいの時に声変わりしたという[15]

千葉県立我孫子高等学校[8]時代の高校2年生の時に文化祭でのクラス演劇で初めて舞台を体験[14]。その頃にアル・パチーノの映画で吹き替えをしていた野沢那智を知って初めて声優を意識したが、当時は声優になろうと思ったことはなかったという[16]

同じ声優のこおろぎさとみ阪神タイガース元選手、元監督の和田豊とは同級生であった[3][14][17]。こおろぎとは2年生の時に、和田とは3年生の時にそれぞれ同じクラスだった[14]

高校3年生の時に大学受験をするために予備校に通っていた[12]。しかし皆が同じ方向を向いていることに、一瞬「なにか違うぞ」という違和感を覚え、その日のうちに「受験やめた!」と決める[12]

しかし大学に行かないならほかにやることを探さなくてはいけなく、両親を説得しなくてはいけず、今後のことを改めて考える時間がほしく、自転車に乗り、3日間くらい家出をしていた[12]。そして思いついたのが、職業としての役者だったが、高校でクラス演劇をしていた時に大変面白かったため、「だったら役者になろうかな」というような、かなりアバウトな感じだったという[12]。ただし、それまで音楽をしていたこともあり、楽器を通してではなく体そのものを使ってなにかを伝えるということが、ストレートに感じ、「面白かった」というのはあると語っていた[12]

両親は決断に対して反対はしておらず、2人で演劇も見に行っていたりもしたため、辻谷が「役者になる」と言っていた[12]。その時、宇野重吉滝沢修のことを聞かれ、「知らない」と言っていたところ笑われていた[12]。それでも、「大学に行かせたつもりで4年間くらいは遊ばせておいてもいいだろう」という感じで、自由にさせてくれたが、内心は、「やれるものならやってみろ」、「役者になったところで、どうせ食っていけないだろう」と思っていたという[12]

通っていた高校はアルバイト禁止だったが、「卒業後に東京で生活して演劇学校に通う資金を貯めなければいけない」と教師を説得[12]。その時にむりやり認めてもらい、高校3年生の夏に「受験をやめる」と決めてから、アルバイトを始める[12]

早稲田大学出身で演劇サークルに所属しており、演劇部の顧問もしているなどその方面に詳しかった担任の教師から薦められてパンフレットで見た舞台芸術学院に進学し、2年間学ぶ[12]
キャリア

同芸術学院を卒業後、劇団東演に所属[12]。教務は「劇団3○○に行ったほうがいい。豊川悦司の向こうを張れるような役者になれ」と薦めてくれた[12]。当時、劇団3○○が注目されだしていた頃で、劇団員の豊川悦司は、辻谷と同じ歳で、主宰の渡辺えりが卒業生だということもあり、薦めていたんだという[12]。それで劇団3○○の芝居を見に行ったが、合わないような気がして断念したという[12]。教務にいわれるままに3○○に入団していたら、声優をしていなかったと語る[12]

7年間ほど劇団活動を続けた訳であったが、25歳の時、劇団に映画放送部が設立され、テレビ、ラジオ等マスコミ出演への窓口が出来たという[14]。当時は俳優志願だったことから、声の仕事をするとは全く考えておらず、テレビドラマ、映画に出演できると思っていた[14]

この映画放送部設立にあたり「声のサンプル」を取り、この「声のサンプルテープ」が好評で、1ヶ月後位にキャスティング会社の指名で『アルバイトニュース』のテレビCMのナレーションの仕事が舞い込んだ[14]。当時は無名の新人にいきなり指名で仕事が入るとは珍しいことのためこの時はマネージャーも驚いていたという[14]

仕事は30分ほどで終えたが、「これで何千円かギャラが入ればアルバイトの足しになる」と思い、数ヶ月後入金を見て「数字が一桁違う!」、「こんな仕事があるんだ」と驚いていた[14]

当時、深夜までしてたバイトの時給が700円くらいしかくれなかったが、30分で何十倍も稼げた[14]。その時に「どうせアルバイトをするなら、こちらの声の仕事の方がはるかに効率が良い」と思ったのが、声優の仕事に興味を抱いたきっかけである[14]

同劇団に所属していた近石真介の仕事に付いていくうちに、声優を始めるようになる[12]。当時は声優に特有のマイクワークのような技術はまったく学んでおらず、全部、現場に出るようになっていから覚えていった[12]。声の仕事をするとは考えてもいなかったため、声優を認識してなかった[12]。アニメを見て「絵がしゃべってる」と思うレベルではなかったが、役者の仕事と声の演技というのが結びついておらず、アニメを見ていたのも小学6年くらいまでで、『巨人の星』、『タイガーマスク』止まりであったという[12]

シグマ・セブン1991年 - )[3]クレイジーボックス2005年 - )[3]deux-plus2008年 - )[3]マック・ミック[4]を経て、2018年3月から亡くなるまでフリー

あいつとララバイ』でアニメデビュー[5]

『あいつとララバイ』に出演後、その時の音響監督の浅梨なおこの師匠の音響監督の斯波重治が音響演出を務めていた『めぞん一刻』の収録に呼ばれ、渕崎ゆり子が演じていた八神いぶきにプロポーズする役を演じていた[5][18]。その時のセリフが「僕、貯金が趣味なんです」で、普通に演じていたところ、あまりに普通だったことが面白く、共演者の皆がどっと笑っていた[18]。斯波も、あまり色づけされてないナチュラルな演技が好きだということもあり、その後は月に2、3回程『めぞん一刻』の端役に出演していた[5][18]

3ヶ月ほどたった頃、「収録の後もスタジオに残ってくれ」と言われたため、居残りをしていたところ、いきなりセリフの書かれた紙を渡され、「読んでみて」と言われた[5][18]。それがOVA『沙羅曼蛇』のオーティションで、主人公のダーン役に抜擢[5][18]。その時に「君のような素直な声の人はなかなか居ないんだ、ガンバレよ」と励まされていたと同時に、厳しく怒られたこともあったという[5]

その後はアニメの仕事を継続してくれるようになったという感じで、これがほんの1年あまりの間の出来事であったことから、なにも考える時間がなかったという[18]


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