辻? 発彦埼玉西武ライオンズ監督時代
(2018年6月9日 東京ドーム)
基本情報
国籍 日本
出身地佐賀県小城市
生年月日 (1958-10-24) 1958年10月24日(65歳)
身長
体重182 cm
78 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手
プロ入り1983年 ドラフト2位
初出場1984年4月3日
最終出場1999年10月14日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
佐賀県立佐賀東高等学校
日本通運浦和
西武ライオンズ (1984 - 1995)
ヤクルトスワローズ (1996 - 1999)
監督・コーチ歴
ヤクルトスワローズ (2000 - 2001)
横浜ベイスターズ (2002 - 2004)
中日ドラゴンズ (2007 - 2011, 2014 - 2016)
埼玉西武ライオンズ (2017 - 2022)
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辻? 発彦(つじ はつひこ、1958年10月24日 - )は、佐賀県小城市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、野球解説者・野球評論家。
2017年シーズンから2022年シーズンまで埼玉西武ライオンズの監督を務めた。
愛称は「ハツ」「はっちゃん」[1]。当時二塁手として歴代最多となる8度のゴールデングラブ賞を受賞している。
パチスロライターとして活動している辻ヤスシ(本名:辻泰史)は長男[2][3]。 辻は西武の前身である西鉄ライオンズのファンで、父の運転するトラックで度々佐賀から福岡の平和台野球場へ野球観戦に出かけていたという。佐賀市立昭栄中学校を卒業した時点では身長が161cmと小柄で高校での硬式野球をあきらめようとも思ったが[4]、佐賀東高校では強い情熱で練習を積んだ。1975年秋季九州大会準々決勝に進むが、日田林工に敗退。 身長は182cmにまで伸び、日本通運に入社して浦和野球部でプレーした。辻はレベルの高さにプレッシャーを感じたが[4]、やがて中軸打者、三塁手として起用される。1981年の都市対抗にエース加藤正次を擁し出場。準々決勝に進むが、東芝の黒紙義弘の好投の前に敗れる[5]。1982年の社会人野球日本選手権は決勝に進むが、ヤマハ発動機の鈴木政明らに抑えられ敗退[6]。しかし同大会の優秀選手に選出され、打撃賞も獲得した。 1983年のドラフト会議では西武ライオンズに2位指名を受け、入団した。辻の指名の経緯については、身体能力の高さ、1983年の1年間に40回盗塁を企図して失敗0だった走塁センス、そして野球への熱意を評価した[7]と根本陸夫は述べている。1983年の都市対抗では1回戦で日本生命に敗退するが、二塁手、一番打者として活躍しており、これを見たスカウトからは大型二塁手としての素質を評価されていた[8]。社会人時代には目立った実績がなく、上位指名に対して驚きの声もあった[7]。 1984年のメサでの春季キャンプで、辻は当時の広岡達朗監督から激しいノックを受け、守備を鍛えられた[7]。辻も新人ながら41試合に出場し、その内29試合は三塁手、4試合は二塁手だった。オフに二塁手のレギュラーだった山崎裕之が引退し、遊撃手には石毛宏典、一塁手にはスティーブ・オンティベロス(三塁手兼任)や片平晋作、三塁手には秋山幸二がいたため、チーム方針で辻も二塁手を目指すことになった[8]。辻は当時について、広岡監督が自らグラブを持って手本を示したため厳しい指摘にも反論できなかった、と後に述懐している。 1985年には出場した110試合中90試合で二塁手を務め[8]、出場機会は大幅に増えた。日本シリーズ第2戦、7回裏一死一・三塁の場面でセーフティースクイズを敢行するが阪神タイガースの一塁手・ランディ・バースのファインプレーに遭い、三塁走者の秋山がホームでタッチアウトになった。このことで辻は、「フライを恐れたが、もっと強いバントをすべきだった」と後に反省している。オフの11月19日には郭泰源や通訳と同乗して西武球場へ練習に行く途中、所沢市内で追突されて全治1週間のむち打ち症となったが大事には至らなかった[9]。 1986年は二塁手として全試合に出場し、規定打席(13位、打率.296)にも到達。初めてゴールデングラブ賞とベストナインに選出された。日本シリーズでは第1戦の7回に二盗と三盗を成功させ、シリーズ史上6人目となる1イニング2盗塁を達成した[10]。この年は2試合だけ遊撃手のポジションにも入っている[8]。 1987年、3月31日の阪神とのオープン戦で中田良弘のシュートを踏み込んで打ちに行って投球が当たり、右手人差し指を開放骨折した[11]。飛び出た骨が見えるほどの重症で、一軍登録されたのは7月30日だった。この年は51試合の出場に終わっている。読売ジャイアンツと戦った日本シリーズ第6戦では8回裏二死から安打で出塁し、続く秋山がセンター前ヒットを放つと捕球したウォーレン・クロマティの緩慢な返球と、中継に入った川相昌弘が打者秋山・走者辻の二塁進塁を警戒して三塁側が死角になったことに乗じて、辻は一気に一塁から生還して駄目押しのホームを踏んだ。優勝目前の9回表二死の場面ではタイムをかけ、泣いていた一塁手の清原和博を慰めている。 1988年は、前任の石毛に代わって西武の選手会長に任命され、オフには年俸が1500万円増の4300万円(推定)となった[12]。同年から7年連続して二塁手でゴールデングラブ賞を受賞し、1990年まで3年間連続で全試合出場を果たした。 1989年は、本人自己新パ・リーグ初(社会人出身としては初)の打率3割を達成する。 1990年の日本シリーズでは、第1戦から3試合連続で一番打者としての第1打席に安打で出塁し、いずれも得点に結びついて、4連勝での日本一に大きく貢献し[13](第4戦も一番打者としての第1打席に四球で出塁)、優秀選手賞を獲得した。 1991年(チームも2年連続日本一7回目)オフには年俸が1億1100万円となり、初めて1億円の大台を超えた。 1992年の日本シリーズ最終戦では、7回裏一死満塁の一打出ればヤクルトスワローズが勝ち越す場面で杉浦享の放った強烈なゴロを捕り本塁で広沢克己を補殺し、大ピンチを救うプレーで日本一に貢献した。 1993年は腰痛で出遅れ、チームも4月は低調だった[14]が、上半身の力を抜き下半身でタイミングを取るような打撃フォームにしたこともあり[15]、打率.319で初の打撃タイトルとなる首位打者を獲得。年俸は3900万円増の1億7200万円(推定)となっている[16]。 1995年には腰痛もあって前半戦の出場機会が減り成績も低迷した。当時2億円(推定)[17]の高年俸がネックとなったことや、若返りを図るチーム事情から戦力外通告を受けた。近鉄バファローズとの最終戦前日に東尾修監督と浦田直治本部長から監督室に呼ばれ、本人の意思を全く確認せずに二軍守備走塁コーチ就任を打診された経緯もあり[18]、現役続行を希望して自由契約となった。 西武退団後は、ヤクルトスワローズの野村克也監督と千葉ロッテマリーンズの広岡GMからそれぞれ入団を誘われた。ヤクルトは5000万円、ロッテは8000万円の年俸を辻に提示してきたが、辻は先に声を掛けられていたことと野村監督の下で野球を勉強したい気持ちからヤクルトへの入団を決めた[19]。 1996年はキャンプから若手と同じメニューをこなし、オープン戦にも2月25日の初戦から出場した。が、疲労などからオープン戦の打率は.227と低調で更に4月7日には対横浜戦の試合前の練習で右手人差し指を骨折してしまった[19]。復帰した5月10日の対中日戦で猛打賞を記録すると以後は安打を量産する。規定打席には達しないながらも6月上旬には4割近い打率で、オールスターゲームにも出場した。後半戦の規定打席到達後は徐々に打率を下げてしまったが自己最高の打率.333を記録した。しかし、7厘差でアロンゾ・パウエルに及ばず、セ・パ両リーグでの首位打者にはならなかった。 1997年は再び首位打者争いを目指し好調なスタートを切り、序盤こそ打撃成績ベストテン圏内に名を連ねていたものの、体力の衰えもあり下降線をたどり、スタメンでの出場機会が減った夏場以降は代打なども経験しつつ稲葉篤紀に打撃理論、宮本慎也に守備を助言するなど若手選手をサポートする役割も担った[19]。 1998年には一塁手を4試合務めて12年ぶりに二塁手以外の守備に就いたほか、打数は少ないものの打率.304と代打の切り札的存在だった。 1999年はキャンプで左肩を痛め、その後も左わき腹や左太ももなどの故障が続いてプロ入り以来最少の17試合出場に終わり、同年限りで現役を引退。
経歴
プロ入り前
西武時代
ヤクルト時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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