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辻 まこと
誕生1913年9月20日
日本・福岡県
死没 (1975-12-19) 1975年12月19日(62歳没)
墓地長福寺(福島県双葉郡川内村)
職業詩人、画家
最終学歴法政大学工業学校夜間部中退
主な受賞歴歴程賞(1964年)
親族辻潤(父)
伊藤野枝(母)
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辻 まこと(つじ まこと、本名:辻 一〈読みは同じ〉、1913年〈大正2年〉9月20日 - 1975年〈昭和50年〉12月19日)、は、日本の詩人、画家。山岳、スキーなどをテーマとした画文や文明批評的なイラストで知られる。
日本におけるダダイスムの中心的人物で餓死した辻潤と、婦人解放運動家で甘粕事件で大杉栄とともに殺害された伊藤野枝を両親にもつ。
1975年、首吊り自殺を遂げた。 1913年、辻潤と伊藤野枝の長男として生まれる。なお、両親の戸籍上の婚姻は1915年、出生地は母親の郷里福岡県である。このころ、父の辻潤は翻訳出版『天才論』がベストセラー化しており、また母の伊藤野枝も雑誌『青鞜』の主力執筆編集者として活躍していた。 1916年、母・野枝は大杉栄のもとに出奔し、1923年の関東大震災時の混乱下、大杉と共に軍部に惨殺される(甘粕事件)。辻まことは生活力に乏しい父親と放浪生活を共にすることもあった。その間静岡工業学校あるいは法政大学工業学校にも在籍したがいずれも中退している。静岡の中学時代の2年間は、父の友人であり元海軍予備中佐の飯森正芳
生涯
1928年(昭和3年)静岡工業学校中退後、父親に伴ってパリに滞在し、父の友人の武林無想庵と連れられて来ていた山本夏彦などを知る。無想庵と宮田文子(当時は武林姓)の娘、武林イヴォンヌも知る。パリでは読売新聞の松尾邦之助が面倒を見た。この時15歳のまことが著した辻潤とソ連の作家イリヤ・エレンブルグとの会見記「エレンブルグに会ふ」が雑誌『文学時代』に掲載されたりもしている。
1929年(昭和4年)、父と共に帰国。村松正俊が同行し1932年(昭和7年)、辻潤が天狗になったと言って二階から飛び降り怪我をする。精神異常が顕著。オリオン社に入り絵描きの仕事をする。竹久夢二の息子・竹久不二彦らと登山をするようになる。