辺野古弾薬庫
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辺野古弾薬庫
沖縄県名護市辺野古
空中写真で黒塗りされている箇所が辺野古弾薬庫 (琉球政府撮影 1971年 国土地理院)
#22 辺野古弾薬庫 #31 キャンプシュワブ
種類FAC6010
面積1,214,000m2
施設情報
管理者アメリカ海兵隊
歴史
使用期間1956年-
サンゴ礁に囲まれた名護市周辺の遠景。中央下が辺野古岬。

辺野古弾薬庫 (へのこだんやくこ) (Henoko ordnance ammunition depot) は、沖縄県名護市辺野古にある米軍海兵隊基地。総面積は、約1.21 km2。アメリカ海兵隊キャンプ・シュワブと現在埋め立てている辺野古新基地の北側に隣接する辺野古弾薬庫は、海兵隊の弾薬庫として使用されている。弾薬庫の多くは覆土式となっている。
基地概要

場所:沖縄県
名護市(字二見、字辺野古

施設面積:1,214,000m2

管理部隊名:海兵隊キャンプ・バトラー基地司令部

使用部隊名:第3海兵兵站群第35戦闘兵站連隊需品即応中隊弾薬小隊

使用主目的:弾薬庫[1]

1992年、辺野古弾薬庫を使用している第3補給大隊が所属していた第9旅団役務支援群が解隊され、第3海兵兵站群 (司令部=牧港補給地区) が管理。

辺野古弾薬庫の南側にキャンプ・シュワブが隣接している。

施設番号
FAC6009キャンプ・シュワブキャンプ・シュワブ
キャンプ・シュワブ訓練場
キャンプ・シュワブLST繋留施設 C表参照
FAC6010辺野古弾薬庫辺野古弾薬庫
辺野古海軍弾薬庫

歴史

1956年、辺野古弾薬庫、辺野古海軍弾薬庫として使用開始。

1958年、特殊倉庫の建設を
国場組が請け負う。

1972年5月15日、沖縄県の復帰に伴い施設・区域が提供される(このとき2施設が統合され、現在の辺野古弾薬庫となった。

1977年6月15日、施設管理権が陸軍から海兵隊へ移管。

2017年11月9日、米軍再編ロードマップに明記されていないにもかかわらず、日米合同委員会で辺野古弾薬庫の一部となる4棟、計2,100m2の建替工事が合意され、日本が20億円を負担することがあきらかになった[2]

化学兵器と核兵器の貯蔵について
化学兵器貯蔵施設としての辺野古弾薬庫

米国立公文書記録管理局(NARA)によると、

1971年12月10日、毒ガス保管庫や化学部隊に関する記事。沖縄で毒ガス保管庫(Poison Gas Storage Facility)施設の建設を検討している件と、かつて知花弾薬庫 (現在の嘉手納弾薬庫) に駐屯し、今 (1971年現在) は辺野古に配属中の第267化学部隊185名について記されていた。[3]
レッドハット作戦」も参照
核兵器貯蔵施設としての辺野古弾薬庫

1971年10月27日、日本の米国大使館から国務省へのテレグラムの記録。
米国立公文書記録管理局(NARA)によると、日本国参議院予算委員会で、沖縄の辺野古にある核兵器ポセイドン (潜水艦弾道ミサイル) が、辺野古弾薬庫の1060ビルに存在するという話が取りざたされたと記されていた。[3]

2009年に公開された「1969年11月21日のリチャード・ニクソン米合衆国大統領と佐藤栄作日本国総理大臣との共同声明についての合意議事録」について、翌年「いわゆる密約問題に関する有識者委員会報告書」が検証した[4]。その中に辺野古(弾薬庫)が核兵器貯蔵施設であることが明記されている。しかしながら、日本を含む極東諸国の防衛のため米国が負っている国際的義務を効果的に遂行するために、米国政府は、極めて重大な緊急事態が生じた際、日本政府との事前協議(A)を経て、核兵器の沖縄への再持ち込みと、沖縄を通過させる権利を必要とするであろう。米国政府は、その場合に好意的な回答を期待する (B)。米国政府は、沖縄に現存する核兵器貯蔵地である、嘉手納、那覇、辺野古、並びにナイキ・ハーキュリーズ基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、極めて重大な緊急事態が生じた時には活用できるよう求める。 ? リチャード・ニクソン米合衆国大統領こちらも参照 → 沖縄の核

退役軍人のプロフィールなどから、兵站部隊が辺野古で核兵器組み立てを担っていたことが判明した[5]。1962年にニューメキシコ州アルバカーキで行われた陸軍核兵器組立講座に参加し、沖縄の第137兵站部(辺野古)の核兵器組立チームのNCOIC (非委任役員) として3年間過ごしました。その任務での彼の並外れた兵役により、彼は第5米陸軍の核兵器顧問、DCSLOG (兵站部副部長) に選ばれました。 ? ある退役軍人のプロフィール

この「核兵器組み立て班」の存在は、米軍全四軍が沖縄に最大18種類、1200発以上の核兵器を配備し、有事の際には分解して日本やその他の地域に核を分解して持ち込み、現地で組み立てるという計画が実際に機能していたことを示す[6]

1958年4月、弾薬庫の「特殊倉庫施設工事」を請け負った國場組で現場副主任であった国場幸一郎は、当時を振り返り「辺野古のは、あれは普通の弾薬庫じゃないな。どうも特殊兵器ですね」「嘉手納 あたりの普通の弾薬庫はイグルー型といって、かまぼこみたいな形をしているんだが、辺野古のは穴を掘って、ものすごく大きな坑道みたいなものを...。冷房まで入ってた。」と語っている[7]

情報公開で公表された弾薬庫の見取り図には、それぞれの兵舎地区に沿う形で4カ所のフォールアウト・シェルター (核シェルター) が建設されている[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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