ピョン・ジンイル辺 真一
生誕1947年(74 - 75歳)
日本 東京都
教育明治学院大学文学部英文学科卒業
職業ジャーナリスト
辺真一
各種表記
ハングル:???
漢字:邊眞一
発音:ピョン・ジニル
ピョン・ジンイル(通例)
日本語読み:へん しんいつ
ローマ字:Pyon Jinil(2000年式)
Pyon Jinil(MR式)
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辺 真一(ピョン・ジンイル、ハングル:???、韓国語漢字表記:邊眞一、1947年[1] - )は、在日コリアン二世ジャーナリスト。朝鮮半島問題専門誌『コリア・レポート』創刊者、編集長。有限会社コリア・エンタープライズ代表。日本外国特派員協会会員、日本ペンクラブ会員。目次
1 経歴
2 人物
3 主要な活動
3.1 テレビ番組
3.2 ラジオ番組
3.3 講演活動
4 主要著書
5 主要訳書
6 脚注
7 外部リンク
経歴
両親は韓国・済州島出身だが、実母は韓国人ではなく秋田県出身の日本人である。辺自身はこのことを50歳になって知った[2]。
明治学院大学文学部英文学科卒業。在学中は演劇部に所属し、当時は俳優の奥田瑛二も部員として在籍していた[2]。朝鮮半島問題に関わらなければ、英国のシェイクスピアを研究したかったと語っている[3]。
朝鮮新報社で英字誌『PEOPLE'S KOREA』、仏語紙『LA COREE POPULARE』、『朝鮮新報』日刊紙社会部などの記者を歴任。1973年から1980年にかけてロシア(当時はソビエト連邦)、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリア、ユーゴスラビア、アルジェリア、マルタなど多くの海外取材を手掛けていた。1980年に退社し、35歳の1982年に東京の神田神保町に事務所を構えて独立。朝鮮半島専門誌『コリア・レポート』を創刊し、現在に至るまで編集長を務めている。
朝鮮半島の緊張緩和、南北和解、日朝関係改善を願い、1985年には「神戸ユニバシアード」で統一応援旗を製作し、南北共同応援団を結成。1991年 には俳優の菅原文太やアントニオ猪木、評論家の田原総一朗、作曲家の三枝成彰、歌手の都はるみらに呼び掛けて南北国連同時加盟記念祝賀宴を東京で開催。また、金丸訪朝後は在米韓国人の「マダム朴」が手掛けた北朝鮮への名古屋からの民間直行便開設に助力している。
現代財閥創業者の鄭周永の妻である邊仲錫(鄭も妻も、現在の北朝鮮の江原道通川郡出身である)は父方の親戚であり、現代財閥とのコネクションから2002年日韓ワールドカップ共同開催時には鄭周永の六男でもある韓国側組織委員会委員長の鄭夢準FIFA副会長とのインタビューにも成功している。
1999年に参議院朝鮮問題調会で参考人として国会で陳述。
2003年に沖縄大学客員教授に就任(?2015年)。
2003年に海上保安庁政策アドバイザーに就任(?2015年3月)。
人物
1997年に日本政府が北朝鮮に米支援を行うことを決め、国内で賛否両論が起きた際に、支援に慎重であるべきとする西村眞悟と対立し、北朝鮮による日本人拉致問題解決のためにも人道支援を行うべきとの主張を譲らなかった。
2002年の日朝首脳会談以前には、日本のメディアが韓国に亡命した北朝鮮工作員の証言をもとに横田めぐみ拉致事件について報道したことに対して、正体不明者の発言は伝聞に過ぎず、証言ではなく、「未確認情報」とすべきと書いていた。その後、証言者として名乗り出た工作員(安明進)とインタビューを行い、本人の口からめぐみさんに関する情報は自分が北朝鮮で目撃した情報ではなく、韓国の情報機関が別の脱北者から聴取した話を代わりに伝えたに過ぎないとの証言を得た[4]。
金正日後継問題では、日韓のメディアでは次男の金正哲有力説が大勢を占めていたが、三男の金正恩に決まる2009年まで、長男の金正男有力説を唱えていた。
韓国への取材渡航は数十回に及ぶが、北朝鮮へは『朝鮮新報』記者時代の1980年に一度渡航したのみである。後にアントニオ猪木との対談で明らかにしたところでは、名古屋=平壌間のチャーター便就航事業に協力したところ、これに関われなかった朝鮮総聯から疎まれ、北朝鮮への渡航申請をしても許可が下りない状況に陥ったという[5]。
日韓専門サイト『JPニュース
テレビ・ラジオの出演は1986年からで、TBS系「情報デスクToday」などを皮切りに、朝鮮問題に関する評論家活動を続けている。
テレビ番組
サンデーモーニング(TBS系) - 朝鮮半島での有事の際にコメンテーターとして出演することが多い
ひるおび!(TBS系) - 同上
羽鳥慎一モーニングショー(テレビ朝日系)
ワイド!スクランブル(テレビ朝日系)
ビートたけしのTVタックル(テレビ朝日系)
情報ライブ ミヤネ屋(読売テレビ・日本テレビ系)