農民
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この項目では、西洋における農民(Peasant)について説明しています。

日本史上の農業労働者については「百姓」をご覧ください。

現代の農業従事者については「農家」をご覧ください。

来訪者にベリーを差し出すイズバーの農民の女性たち。セルゲイ・プロクジン=ゴルスキーによる1909年のカラー写真。かつてのロシアの農民はほぼ農奴であり、公式には1861年にその地位から解放された。

農民 (のうみん、英語: peasant)は、農業労働者、特に中世封建社会・前工業社会において、領主年貢地代、その他さまざまなや労働を提供していた人々を指す[1][2]ヨーロッパ史上の農民は、その人間地位によって、完全に領主の個人資産として扱われた農業奴隷家庭住居、農具など最低限の財産所有権はあるものの土地と領主に縛られ隷属する農奴、自ら土地を所有し農業事業の自営が可能な独立自営農民の3階級に分けられる。さらに細かく見れば、農民の地位は土地保有権、免役地代、借地権謄本土地保有権など様々な義務と権利で規定された[3]

長きにわたり、農民(peasant)という語は、貧しく土地を持たない農業従事者に対して、「無学な」、「無知な」、「都会の洗練からは程遠い」などといった意を含んで軽蔑的に用いられてきた。また現代においても、開発途上国で人口の大部分を占めるような農業従事者に対して若干侮蔑的なニュアンスを含んで使われることがある。
語源1794年の農民の家

英語のpeasantという語は、15世紀中世フランス語のpaisant (田舎)、究極的にはラテン語のpagus(郡)を語源としている[4]
一般的な社会的地位

中世には、農民はほとんどの地域で人口の大多数を占めていた。

農民という語は非常に幅の広い語であるが、市場経済が根付いた後は、小自作農地を所有する農民を特に農民経営者(peasant proprietors)と呼ぶようになった。
中世ヨーロッパの農民『農民の結婚式』(ピーテル・ブリューゲル画、1567/8年)『居酒屋の農民たち』(アドリアーン・ファン・オスターデ画、1635年ごろ アルテ・ピナコテーク蔵)

中世の北ヨーロッパでは、19世紀まで開放耕地制が一般的だった。ここでは、農民は領主や教会聖職者カトリック司教プロテスタント監督)の荘園に住み、耕作権と引き換えに地代や労役を提供した。荘園には、耕作地のほかに休耕地、牧草地、森、荒地なども含まれた。こうした開放耕地制は、領主と農民の相互依存関係のもとに成り立っていた[5]。後にこのシステムは、農民(農家)個人が土地を所有し管理する制度に代えられていった。

西ヨーロッパでは、14世紀中ごろに黒死病大流行したのち、農民の地位が大きく向上した。労働人口が大幅に減ったことで、生存した農民が貴重な存在になるとともに、死者の耕地を含めた広大な土地の所有権もしくは耕作権を獲得したためである。その後、活版印刷と書籍の普及によって農民の識字率が向上していき、また啓蒙時代に入ると君主のテコ入れで農民の社会的地位や教育体制が大きく変革された。

イングランドでは、産業革命期に入ると耕作機械や肥料などを導入する農業技術革新により農業生産力が飛躍的に向上した。同時に、生産価格競争に敗れたり、第二次囲い込みで土地を追われるなどした多くの農民が都市へ移住し、工場労働者、カール・マルクスの言う「プロレタリアート」になっていった。独立自営農民として農業を維持できた人々は比較的富裕で選挙権を早期に獲得するなど社会的地位も高く、中世の農民のような社会ヒエラルキー下部の階層は、都市へ移った工場労働者が当てはまるようになった。

東ヨーロッパでは14世紀以降、中世の農奴制の姿がほとんど変化せずに存続してきた。18世紀から19世紀にかけて、啓蒙専制君主の手による農奴解放の動きが生まれたが、不完全な形であったり領主の激しい抵抗を受けたりした。ロシアでは、1861年にアレクサンドル2世農奴解放令を発し、公的には農奴制が廃止された。勅令発令後も多くの農民は先祖代々の土地に縛り付けられたままだったが、農民が土地を売買したり、土地を持たない農民が都市に移住したりすることができるようになった[6]。なお、1861年の農奴解放令以前から、ロシアの農奴制は徐々に衰退してきていた。18世紀末には人口の45%から50%を占めていた農奴は、1858年には37.7%まで減少していた[7]
近世ドイツ『祝う農民』(作者不詳、18世紀 - 19世紀)

19世紀までのドイツでは、農民は村の共同体に所属して、共有財産を管理していた[8]。特に東部では、彼らは永久に土地に縛り付けられた農奴であった。彼らは、ドイツ語ではバウアー(Bauer)、低地ドイツ語ではボアー(Bur)と呼ばれた。

ドイツのほぼ全域の農民は、地主貴族に地代や労役を納める義務を負った小作農だった[9]。農民の代表は、農地を監督して溝渠権や放牧権を管理し、村では軽犯罪を裁く小法廷を取り仕切った。農民の家庭内では家長がすべての決定権を握り、子どもたちにより有利で恵まれた結婚をさせられるよう努めた。大部分の農民の村規模での活動は、教会祭日を中心としていた。プロイセンでは、徴兵される者を選ぶために農民たちが村でくじ引きを行った。貴族は自らの領地の村に対して非常に強い影響力を持っていたが、日常生活にまで介入することは滅多になかった[10]
19世紀フランス

歴史家のユージン・ウェーバーは、著書Peasants into Frenchmen: the Modernization of Rural France, 1880?1914 (1976年)においてフランス農村の近代化の過程を追い、農村は歴史的に逆行して、19世紀後半から20世紀にかけてのフランス国民形成の流れに取り残されてしまったと述べている[11]。彼は鉄道、共和主義教育、普遍的な徴兵制度の役割の重要性を強調している。彼の研究は、学校や軍隊の記録、移民のパターン、経済の動向などを基にしている。1900年ごろまでは各地域におけるフランス国家意識が弱かったとウェーバーは主張し、その上で第三共和政が果たした農村での国家意識形成を論じているのである[12]。この本は大きな反響を呼び賞賛されたが、一部[13]には、農村でのフランス人の国家意識は1870年までにはすでに存在していたと考えている者もいる。
東アジアの「農民」

中国における農夫 (?夫)は、元々単に農業労働者を指す語であった。19世紀に日本の知識人が中国の封建制と西洋のフューダリズムを結び付け、封建時代の日本社会の農業従事者(百姓など)を西洋の中世的な「農民」の概念に位置付けた[14]。こうした動きは、中国において農夫が下層民とされるそれまで存在しなかった社会構造を生み出した。人類学者のミーロン・コーエンは、この新たな意味を持つ「農夫」という語の誕生は、マルキストなど西洋的な視点を取り入れた人々が中国農村を遅れた地域とみなすようになったことなどの、当時の文化的・政治的な社会革新を象徴しているとしている[15]。現代の西洋でも、中国の「農業労働者」を指すときにpeasantの語を用いることが多い[16]。これは、中国が農村の人々によって「中世的」で遅れた地域にとどまっているとする西洋の価値観によるものだという指摘がある[17]。コーエンは「西洋史上での都市と農村、店主と農民、商人と領主というように賦課の役割を対比するやり方は、中国の経済的な伝統像を歪めるのにしか役立っていない。」と述べている[18]


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