農奴制
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中世ヨーロッパの農奴の服装

農奴制(のうどせい、: serfdom)は、一般的に封建制のもとで行われる統治制度。農奴(: serf)はもともとヨーロッパ封建社会で強く領主に隷属し、「保有」された農民を指したが、強度の差はあれ、古代?中世唐代の中国や前近代の日本においても小作制度などとして論じることができる。しかし、奴隷との差異においても、何を基準に農奴とみるかは歴史学経済学法学などの学問の分野、さらに定義となる地域時代によっても一様でない。農奴制の構成に共通する、領主と使役される小作人という関係以外では、一律に概要を説明せず下記では地域ごとの特徴を論ずるに留める。
歴史
農奴制の成立

農奴制に似た社会制度は、古代にも知られていた。古代ギリシャ都市国家スパルタのヘロテの地位は、中世の農奴に似ていた。古代ローマが地中海に勢力を広げた大帝国へと発展するにあたって、戦争捕虜などで安価に大量に供給された奴隷の労働に頼った大土地経営である「ラティフンディウム」が広まった。しかしながら、ローマ帝国が拡大期から停滞期へと移行するにあたって、奴隷の供給量が減少し、価格が上昇した。その結果、大土地所有者は、奴隷の代わりに没落農民を小作人として雇い入れ、「コロナートゥス」へと移行した。

紀元3世紀になると、ローマ帝国は労働力不足に直面するようになった。ローマの大土地所有者は労働力を提供するために奴隷の代わりに小作人としてローマの自由民に頼ることが多くなった[1]。このような小作人たちは、やがてコロヌスと呼ばれるようになり、その地位は徐々に失われていった。もともとコロヌスとは、地主が小作人に土地の使用を許可し、その対価として農作物の一部を得るという相互関係であった。しかしディオクレティアヌスの時代に税制改革が行われ、これが小作人地主の関係を変化させた原因だとする歴史家が多い。ディオクレティアヌス帝の治世下284年から305年にかけて、土地税と人頭税の増税のために、コロヌスを土地に結びつける勅令がいくつか出されたのである。ディオクレティアヌス帝の税制改革によって土地と住民は結び付けられ、農民が土地を離れることが困難となった[1]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}3世紀末のディオクレティアヌス帝以降、借地人(コロヌス)は自由ではなく、縛られることになった。皇帝の関心は課税であり、借主の地位ではなかったが、それでも、それまで徐々に実践されていたことが法律化されたのである。自由借地人の消滅とともに、古典的なローマ時代の借地契約であるlocatio conductio reiは法律文書から姿を消した[2]

農民は領主から貸与された土地を自身で耕作するために拘束されて(領主の許可なく)移転の自由はなく、さらに賦役や貢納などの義務を負った。領主間の土地の売買、譲渡は、土地所有権の移動、つまり所有者の交代を意味した。

モーゼス・フィンリー紀元前1000年から500年までの歴史をモデル化して要約できるとし、身分制度が連続した社会から、身分制度が奴隷と自由民という二つの端に束ねられた社会へと移行すると提案した。さらにローマ帝国のもとでその動きは逆転し、古代社会は次第に身分の連続体に戻り、中世社会へと変化していったと分析した[3]
全盛期

農奴制は自由民と共に中世ヨーロッパの農業労働を担っていた。実体としての奴隷制は中世を通して続いたが[4]、奴隷はまれであり、主に家庭の奴隷の使用に限定されていた。スカンジナビアの大部分を含むヨーロッパの一部は、農奴制を採用することはなかった。

中世後期、農奴制は東ヨーロッパに拡大したが、ライン川以西では姿を消し始めた。13世紀から14世紀、西ヨーロッパでは、強力な君主、都市、経済の改善により、荘園システムが弱体化し、農奴制は1400年までに例外的な存在となっていた。

西ヨーロッパの農奴制は、経済、人口、および西ヨーロッパ諸国の領主と借り主の関係を支配する法律の変更によって、15世紀と16世紀に大部分が実態として消滅し、終止符がうたれた。

農奴制は西ヨーロッパより何世紀も遅れて東ヨーロッパに到達し、15世紀頃に支配的となった。それ以前の東ヨーロッパでは西ヨーロッパよりもはるかに人口が少なく、東ヨーロッパの領主は東への移住を促進するために農民を優遇する政策を適用していた。
衰退期

ノルマンディーでは農奴制は1100年までに姿を消していた[5]

フランスでは、1315年ルイ10世が全ての人間は自由に生まれたと論じて、全ての農奴の解放を宣言した[6]

フィリップ5世(1318年)による農奴廃止政策によってフランスでの農奴制は事実上終了した。いくつかの孤立したケースを除いて、農奴制は15世紀までにフランスに存在しなくなった。

イギリスでの農奴解放は1381年のワット・タイラーの乱に始まり、1500年にはイギリスの大部分で消滅していた。エリザベス1世が1574年に最後の残りの農奴を解放したときに完全な終焉を迎えた。

ヨーロッパの他の地域、カスティーユ、ドイツ、フランス北部、ポルトガルスウェーデンでは自由権を求めた農奴が反乱を起こし、しばしば成功したが、法制度が変更されるまでには通常長い時間を要した。
概要

農奴は一般的に土地のある小さな家を借りていた。荘園領主との契約の一環として領主の畑での作業に時間を費やすことが期待されていた。先入観に反して契約はそれほど面倒ではなく収穫時の支援義務など、季節限定であることが多かった。残りの時間は、自分たちの利益のために自分たちの土地を耕作することに費やされた。農奴は領主の土地に縛られており、領主の許可なしにそこを離れることはできなかった。

農奴は、農産物、家賃を支払うことに加えて、他の労務を提供しなければならなかった。奴隷とは異なり、農奴は自らの財産を保持することができた。

農奴契約は純粋に一方向の搾取関係ではなく、荘園領主の土地が食料と安全を提供し、土地へのアクセスを保証すると同時に強盗の略奪から作物を守る意味もあった。

多くの場合、中世の農奴は荘園領地から都市や自治区に逃げて1年以上そこに住むことで自由を得ることができた。しかし、この行動は、土地の権利(耕作権、専有権)と農業の生計手段の喪失が含まれるため、領主が特に暴君的であるか、村の状況が異常に困難である場合に限られた。
農奴制の基本的な関係「自然法」も参照

農奴は個人的な財産や富を蓄積することができ、一部の農奴は自由民より裕福になることがあった[7]。経済的に余裕のある農奴なら、自由を買うこともできたという[8]

農奴は自分の土地で好きな作物を栽培することができたが、農奴の税金はしばしば小麦で支払わなければならなかった。余剰分は市場で売ることができた。

地主は正当な理由なく農奴の土地を取り上げることはできず、強盗や他の領主の略奪から農奴を保護し、飢饉の時には慈善事業によって農奴を支援することが期待された。

緊急時に経済的支援を受ける権利は中世社会の「en:Jus commune」(法体系の基礎となる普遍原理)から認めることができる[9]教会法は「貧しい者は余裕のあるものから支援される権利がある」という立場をとっていた[10]
領主

荘園保有層、貴族教会騎士

農奴

家族の形成、住居や耕具、財産の所有は認められる

耕作した土地の耕作権(占有権)は相続できる

領地外への転居、職業選択の自由はない(自由権は領主に金銭を支払うことで取得できる)

不作時に領主からの生活支援が得られる

農奴は賦役の義務や、領主、教会に対して税を払う義務があった。
荘園の形態
古典荘園

直営地での賦役がある荘園

一部農民の保有地も認められるが、直営地への比重が大きい

純粋荘園

直営地より、農民の保有地からの生産物地代、貨幣地代にウエイトを置いた形態

生産力と農奴の地位の向上

地代の支払方法
労働地代
領主直営地において耕作に従事することで地代を支払う方法(賦役)労働の果実たる生産物はすべて領主のものになるため、農奴の生産意欲は低い
生産物地代
自分の農場で生産される農産物を一部納める事によって地代を支払う方法(貢納)物納した後の残った生産物は自分の物となり、自由に経済活動に使えることで、農奴の意欲の上昇をもたらす
貨幣地代
物納を廃し、貨幣によって地代を納める方法貨幣経済の発達による。社会の経済活動が活発化される
ヨーロッパにおける農奴制
概要

中世ヨーロッパにおいて、この時代の人は基本的に「祈る者」(=聖職者)、「戦う者」(=戦士的貴族)、「働く者」の 3 つの身分から構成されると考えられていた。封建的支配身分である前2者は、農民からの収奪の上に生活と活動が成り立った。この収奪は強制であり(経済外的強制)、収奪構造の維持のため、農民の土地への拘束や社会的・身分的な拘束を伴った。

農民の標準的な身分である農奴は、土地保有者である封建領主に人身的に隷属し、移動の自由をもたず、また、領主によって恣意的に課税されたが、古代の奴隷とは異なり、個人の財産を保有し、婚姻するなどの権利を有していたとされる[11]


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