辰馬本家酒造
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「辰馬吉左衛門」はこの項目へ転送されています。13代については「辰馬吉左衛門 (13代)」をご覧ください。

辰馬本家酒造株式会社
Tatsuuma-Honke Brewing Co., Ltd.辰馬本家酒造株式会社 本社
種類株式会社
市場情報非上場
略称白鹿
本社所在地 日本
兵庫県西宮市建石町2-10
設立1662年創業[1](会社設立は1917年
業種食料品
法人番号6140001069420
事業内容日本酒を中心とした各種酒類の製造・販売
代表者辰馬清(代表取締役社長 2020年4月-)
売上高71.05億円(2014年3月)[2]
68.72億円(2015年3月)[2]
63.9億円(2016年3月)[2]
60億円(2017年3月期)
45.7億円(2022年3月)[3]
関係する人物辰馬章夫(相談役)
外部リンク ⇒www.hakushika.co.jp/ 公式サイト
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辰馬本家酒造株式会社(たつうまほんけしゅぞう、Tatsuuma-Honke Brewing Co., Ltd.)は、兵庫県西宮市清酒メーカーである。灘五郷では西宮郷に所在する。
概要

1662年(寛文2年)創業。主な銘柄として「黒松白鹿」「白鹿」の2つをもつ。これら2つの銘柄は大まかに「特定名称酒か否か」で使い分けられている。(特定名称酒には「黒松白鹿」を使用)

代々社長・会長は辰馬家から輩出され、辰馬家により同族経営が行われている。辰馬家はの嘉納家(嘉納財閥)や山邑家(山邑財閥)などとともに、酒蔵でも指折りの名門である[4][5]。戦前は土地開発や金融業、海運業などさまざまな事業を手がけ辰馬財閥を形成していた。また本町辰馬家出身の山県勝見(元国務大臣・興亜火災海上保険元会長)が、辰馬財閥の大番頭として活躍したことでも知られている。他の阪神財閥とともに、阪神間文化(阪神間モダニズム)にも少なからず影響を与えた。戦後は財閥解体(第5次指定)の対象となり、現在の酒造業を中心とする体制へと移行したが、解体に伴って財閥を離れた事業の中には現在も残る企業の礎となったものもある。(→#関係企業

現在は白鹿グループに属し、酒造業を営んでいる。この白鹿グループの中には関西の有名進学校である、甲陽学院中学校・高等学校もあり、の嘉納治郎右衛門(菊正宗酒造)、嘉納治兵衛(白鶴酒造)、山邑太左衛門(櫻正宗)によって設立された灘中学校・高等学校と並び、酒造メーカーが設立した学校としても著名である。

2016年4月には、江戸・明治期に築造された白壁造りの土蔵を活用した蔵元直営の「 ⇒ショップ&レストラン 白鹿クラシックス」を建て替え、“木漏れ日のある酒蔵の店”をコンセプトに全面リニューアルオープンした。

みどり会の会員企業であり三和グループに属している[6]
銘酒「白鹿」の由来

『白鹿』の名前は、長生を祈る中国の神仙思想に由来する。唐の時代、玄宗皇帝の宮中に一頭の鹿が迷いこみ、仙人の王旻(おうびん)がこれを千年生きた白鹿と看破した。鹿の角の生え際には「宜春苑中之白鹿」と刻んだ銅牌があり、唐の時代から千年遡った漢の武帝の時代のものとわかった。皇帝はこれを瑞祥と歓んで慶宴を開き、白鹿を愛養したと伝わる。その後にこの話を詠った瞿存斎(くぞんさい)の詩には「長生自得千年寿」の一節がある。「白鹿」の名は、縁起のよいこの故事にならい名付けられた[7]

なお、茨城県石岡市にある石岡酒造でも『白鹿』の銘柄で日本酒を製造・販売しているが、石岡酒造との資本・業務提携関係は無い。辰馬本家酒造の白鹿は縦書き、石岡酒造の白鹿は横書きで区別されている。
歴史

1662年 - 創業者である辰屋吉左衛門が初代辰屋(当時の屋号)で創業、酒造業を始める。その後、海漕業・金融業などに拡大[8]

1843年 - 年産2000石を突破[9][10]

1852年 - 宮水販売部開設[9]

1853年 - 製樽業始まる[9]

1855年 - 辰馬きよ(10代吉左衛門未亡人)が采配を振る

1861年 - 製樽工場開設[9]

1867年 - 江戸積樽廻船の和船6隻所有。江戸へ清酒や雑貨を積送し、米や雑貨を積荷して帰坂[9][11]

1873年 - 米穀部創設[9]

1875年 - 薪炭部創設[9]

1877年 - 辰馬米穀部として本格的な営業を開始し、辰馬家の酒造用原料米の買入斡旋とともに米穀問屋業や精米業も始める[9]

1879年 - 薪炭部の問屋営業を拡大し、大阪や神戸の薪炭業者への卸売始める[9]

1884年 - 神戸の監獄付属マッチ製造場を兵庫県より払い下げ、マッチ工場「日出館」創業[12]

1885年 - 日本郵船積酒荷の集荷などを行なう辰馬回漕店を創業し、海上火災保険の代理店業務も始める[13]。神奈川支店開設[9]。恵美酒銀行の主要株主となる[9]

1887年 - 西宮にマッチ工場「日新館」創業[12]汽船を購入し、地元の酒造家たちと「有限会社盛航会社」を共同経営し、九州の石炭や備前の食塩などを輸送[9]

1891年 - 和歌山支店開設[9]

1892年 - 「辰馬本家商店」の名で営業開始。1万7500石(3150キロリットル)を醸造、日本一の醸造高を記録。その後、本業である酒造事業のほか、汽船会社(海運業)や海上火災保険業・教育業などへ事業を拡大。財閥を形成する。製樽工場拡大し、独立する。

1893年 - 有限会社盛航会社を盛航株式会社に改組し、社長に辰馬本家番頭の辰栄之介が就任[9]

1897年 - 13代辰馬吉左衛門が当主となる[14]。所有蔵数21を数える。摂州灘酒家興業会社を盛航株式会社が吸収[9]

1898年 - 所有船舶すべてを摂津航業株式会社に売却し盛航株式会社を解散[9]


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