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辰巳 四郎
(たつみ しろう)
誕生日 (1938-03-24) 1938年3月24日
出生地東京都目黒区下目黒
死没年2003年11月5日(2003-11-05)(65歳)
死没地東京都新宿三丁目
国籍 日本
芸術分野イラスト、デザイン、装幀
ウェブサイト ⇒shirotatsumi.com/
影響を受けた
芸術家亀倉雄策
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辰巳 四郎(たつみ しろう、1938年3月24日 - 2003年11月5日)は、日本のイラストレーター、装幀家[1]。イラスト、ポスター、ブックデザイン、舞台美術など幅広く活動[1]。娘はイラストレーターの辰巳(藤森)玲子、姪はシンガーソングライターの椎名林檎[2]。 早稲田大学法学部卒業後、武蔵野美術大学に学んだ。ペン・鉛筆・筆・エアーブラシ等を使い、ヒヤリとした雰囲気の中に見る者を引きつける抽象画、緻密でありながら大胆なリアルイラストレーション、装幀では多重露光を用い、写真とイラストをフィルム上で合成するなど、常に新しい表現に挑戦しながら多種多様な作品を発表した[3]。 電通に勤務していた頃から優れたブックデザイナーとして知られ、独立後はフリーのイラストレーターとして広告・エディトリアルなどを手掛け、晩年はデザイナーとして小説のブックカバーや装幀・装画の分野でも第一人者となった。特に講談社ノベルスをはじめとするミステリー小説の興隆を後押しした陰の立役者として、綾辻行人の『十角館の殺人』から始まった新本格ミステリ小説や京極夏彦・森博嗣らメフィスト賞受賞者の作品の装幀を一手に引き受け、90年代のミステリー小説ブームは辰巳のデザイン抜きでは語れないと言われるほどであった[1][3]。
人物・作風
来歴
1938年 - 東京都目黒区下目黒で出生。
1946年 - 父方の故郷・滋賀県愛知川に疎開。
1947年 - 父病死、東京へ戻る。
1950年 - 中野区立第五中学校入学。
1953年 - 都立石神井高校入学。
1957年 - 早稲田大学第一法学部入学。美術研究会に入部。
1959年 ? 早稲田祭のパンフレットの表紙コンテストで金賞を受賞。審査員の亀倉雄策に出会い、デザイナーという職業を知る。
1961年 - 早稲田大学卒業。同時に武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)本科デザイン科(商業デザイン専攻)に入学。
1962年 - 日本宣伝美術会展(日宣美)初入選。1965年まで3年連続で入選。
1965年 - 武蔵野美術大学卒業。電通入社。
1966年 - 「カフカ全集・審判」が日宣美特選に選ばれる。当時は、朝日広告賞、毎日広告賞などさまざまなコンペで賞金稼ぎに専念していた。
1967年 - 「ボードレール」「吠える」「法王庁の抜け穴」「ある微笑」の4点が日宣美特選、他2点が入選[4]。
1968年 - 電通退社。フリーデザイナーになる。
1972年 - 「派兵」イラストでADC賞銀賞受賞。
2003年 - 11月5日、心不全により新宿三丁目のアトリエで死去。享年65。
受賞歴
日本宣伝美術会展
入選(1962年)
入選(1963年)
入選(1964年)
特選(1966年) - 「カフカ全集・審判」
特選(1967年) - 「ボードレール」「吠える」「法王庁の抜け穴」「ある微笑」の4点[4]
入選(1967年) - 2点
ADC賞
銀賞 - 「派兵」イラスト
主な作品
雑誌の表紙
「劇画アリス」(自販機本)
「漫画大快楽」(三流劇画誌)
「TV Taro」(月刊テレビ情報誌)
「月刊経営塾」
「宣伝会議」
「NOW」
「メフィスト」(小説現代増刊号)講談社
小説の表紙・挿絵・装幀など
国内作品
秋月涼介「月長石の魔犬」「迷宮学事件」講談社ノベルス
芦辺拓「地底獣国の殺人」「探偵宣言 森江春策の事件簿」「怪人対名探偵」講談社ノベルス
我孫子武丸「速水三兄妹シリーズ」講談社ノベルス
安部公房「死に急ぐ鯨たち
綾辻行人「館シリーズ」(「黒猫館の殺人」まで)講談社ノベルス、「殺人方程式シリーズ」光文社文庫、「囁きシリーズ」「霧越邸殺人事件」新潮文庫
有栖川有栖「国名シリーズ」「マジックミラー」「46番目の密室」「幻想運河」講談社ノベルス