辰巳八郎
[Wikipedia|▼Menu]

辰巳 八郎基本情報
本名湯浅 幸四郎
[1]
通称ミドル級の帝王[2]
階級ミドル級
国籍 日本
誕生日1929年2月17日
出身地京都府京都市下京区
死没日 (2002-09-19) 2002年9月19日(73歳没)
死没地東京都品川区
スタイル右ボクサーファイター
プロボクシング戦績
総試合数127[1][2]
勝ち89
KO勝ち28
敗け27
引き分け5
無効試合2ND(無判定試合)
6EX
テンプレートを表示

辰巳 八郎(たつみ はちろう、1929年2月17日 - 2002年9月19日)は、日本の元プロボクサー。本名は湯浅 幸四郎(ゆあさ こうしろう)、プロデビュー時のリングネームは中村 昭一(なかむら しょういち)。京都府京都市下京区出身。元日本ウェルター級(2度獲得)、日本ミドル級(3度獲得)、OBF東洋ミドル級(3度獲得)王者。日本ミドル級王座13度防衛は同級の最多連続防衛記録。現役時代は新和拳所属。
人物

中量級を代表する選手が少ない中、左右のストレートを武器に特異なセンスとテクニックで[2]2階級を制覇した。筋骨逞しいわけではなく、脚はほっそりと伸び、バランスのとれた体の持ち主だった[2]。体が柔らかく、フットワークも滑らかだった[2]。プロデビューから2年後には日本ウェルター級王座を獲得、さらに2年後には同ミドル級王座を獲得した。パンチはそれほど強烈ではなかったが、連打を絶やさない一方で相手のパンチは空振りさせ、TKOでの勝利が多かった[2]

マネージャーの若松巌は戦前は作曲家でもあり、戦後は新橋にとんかつ店「団十郎」を開いたが、ボクシングに関しては全くの素人で、辰巳の指導においても誰にでもできる指示を出すばかりであった。しかし若松に「横へ」と指示されれば辰巳のセンスはサイドステップしてワンツーを相手の顔へ送る動きを実現してみせた[2]
来歴
日本王座2階級制覇

1947年3月22日、プロデビュー戦では4RKO勝利。

1949年4月29日、甲子園球場河田一郎に判定勝利を収め、日本ウェルター級王座を獲得した。同年9月27日、大阪球場で河田との再戦に7RKO勝利を収め、同王座の初防衛に成功した。

日本ウェルター級王座を3度防衛後の1951年1月9日、日比谷公会堂で新井正吉に6R終了TKO勝利を収め、日本ミドル級王座を獲得した。

同年5月9日、後楽園球場で行われた日本王座の5度目の防衛戦で椎名勇夫に判定負けを喫し、同王座を失った。日本ミドル級王座を2度防衛後の同年10月1日、後楽園球場で椎名からの日本ウェルター級王座奪回に挑戦したが、判定負けを喫した。

日本ミドル級王座を4度防衛後の1952年6月21日、後楽園アイスパレスで、羽後武夫に移った日本ウェルター級王座に挑戦し、判定勝利により獲得した。同年7月29日、アメリカ人選手フィル・リゾとのノンタイトル10回戦に判定勝利を収め、さらに同年9月9日、ミドル級王座の5度目の防衛戦でリゾと再戦し、判定勝利を収めた。この2度の戦いでは接近戦を得意とするリゾを左ジャブで押さえ、ワンツーストレートの速射を武器に打ち合う果敢な打撃戦を展開した。
東洋王座挑戦・獲得

日本王座を1度防衛後の1953年1月4日、ソムデス・ヨントラキットとOBF東洋ウェルター級王座決定戦を争うが判定負けを喫した。日王座を2度防衛後の同年6月15日、ヨントラキットとの再戦でOBF東洋ウェルター級王座に挑戦したが判定負けを喫し、同年6月26日、日本ウェルター級、日本ミドル級の両王座を返上した。

1954年1月18日、共立講堂で日本ウェルター級王者横山守に判定勝利を収め、王座を獲得した。

同年3月22日、トニー・アルデゲールと初代OBF東洋ミドル級王座を決定戦で争い、6RKO勝利を収めて同王座を獲得。さらに同年4月19日、アルデゲールとの再戦で同王座の初防衛に成功した。

同年7月2日、大阪府立体育館で行われた横山守との通算5度目の対戦に判定勝利を収め、日本王座の初防衛に成功した。

1955年4月20日、ソムデス・ヨントラキットに11RTKO負けを喫してOBF王座を失った。当時26歳ながら90戦程度を経験し、本来の動きは見られなくなっていた[2]が、日本ミドル級王座を2度防衛後の同年12月3日、ヨントラキットの返上により空位となったOBF東洋ミドル級王座をセーマ・クラスクと争い、判定勝利を収めて同王座を獲得した。

1956年1月8日、大阪府立体育館で大貫照雄に判定負けを喫してOBF、日本の両ミドル級王座を失ったが、同年4月9日、後楽園ローラースケート場で大貫に判定勝利を収めて両王座を奪回、さらに同年10月3日、後楽園球場で大貫に6RKO勝利を収めて両王座の初防衛に成功した。1957年6月1日、ダウソン・シンガバロップに判定負けを喫してOBF王座を失った。日本王座を11度防衛後の1960年10月22日、海津文雄の持つOBF東洋ミドル級王座に挑戦したが判定負けを喫した。

1962年6月3日、後楽園ジムで行われた日本王座の14度目の防衛戦で前溝隆男に10R判定負けを喫して6年あまり守った王座を失い、この試合を最後に現役を引退した。

2002年9月19日午前3時47分、脳梗塞のため東京都品川区の病院で死去した[3]
戦績

プロボクシング:121戦89勝 (28KO) 27敗5分6EX[注釈 1]

戦日付勝敗時間内容対戦相手国籍備考
351949年4月29日勝利10R判定河田一郎 (オール) 日本日本ウェルター級タイトルマッチ
401949年9月27日勝利7RKO河田一郎 (オール) 日本日本王座防衛1
471950年4月17日勝利7RKO呉川勇 (IBC) 日本日本王座防衛2
541950年9月25日引分10R判定秋山政司 (極東) 日本日本王座防衛3
571951年1月5日勝利6R終了TKO新井正吉 (IBC) 日本日本ミドル級タイトルマッチ
581951年2月3日勝利10R判定矢口利夫 (鈴木) 日本日本王座防衛4
601951年5月9日敗北10R判定椎名勇夫 (高千穂) 日本日本王座陥落
621951年7月9日勝利10R判定三上寿一 (城南) 日本日本王座防衛1
641951年8月31日勝利10R判定平間龍雄 (不二) 日本日本王座防衛2
651951年10月1日敗北10R判定椎名勇夫 (高千穂) 日本日本ウェルター級タイトルマッチ
671952年1月3日勝利7RKO横山守 (国民) 日本日本王座防衛3
691952年4月21日勝利10R判定羽後武夫 (AO) 日本日本王座防衛4
711952年6月21日勝利10R判定羽後武夫 (AO) 日本日本ウェルター級タイトルマッチ
721952年7月29日勝利10R判定フィル・リゾ アメリカ合衆国
731952年9月9日勝利10R判定フィル・リゾ アメリカ合衆国日本王座防衛5
741952年12月6日勝利10R判定山野井清次郎 (青木) 日本日本王座防衛1
751953年1月4日敗北12R判定ソムデス・ヨントラキット タイOBF東洋ウェルター級王座決定戦
771953年3月5日勝利10R判定高木徹 (帝拳) 日本日本王座防衛2
791953年6月15日敗北12R判定ソムデス・ヨントラキット タイOBF東洋ウェルター級タイトルマッチ
811954年1月18日勝利10R判定横山守 (国民) 日本日本ミドル級タイトルマッチ
821954年3月22日勝利6RKOトニー・アルデゲール フィリピンOBF東洋ミドル級王座決定戦


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef