辰巳ヨシヒロ
[Wikipedia|▼Menu]

辰巳 ヨシヒロ
たつみ ヨシヒロ

本名辰巳 嘉裕(たつみ よしひろ)
生誕 (1935-06-10) 1935年6月10日
日本大阪府大阪市
死没 (2015-03-07) 2015年3月7日(79歳没)
国籍 日本
職業漫画家
活動期間1954年 - 2014年
ジャンル劇画
代表作劇画漂流
受賞第1回日本漫画家協会賞努力賞(『人喰魚』)
第32回アングレーム国際漫画祭特別賞
第13回手塚治虫文化賞大賞(『劇画漂流』)
2006年度インクポット賞
2010年度アイズナー賞最優秀アジア作品賞、最優秀実話作品受賞(『劇画漂流』)
第39回アングレーム国際漫画祭世界の視点賞(『劇画漂流』)
テンプレートを表示

辰巳 ヨシヒロ(たつみ ヨシヒロ、1935年6月10日 - 2015年3月7日)は、日本漫画家、古書店経営者。大阪府大阪市天王寺区出身[1]。本名:辰巳 嘉裕(たつみ よしひろ)[2]。兄は、漫画家・漫画出版社経営者の桜井昌一

貸本漫画家として活躍しながら、「劇画」という名称を提唱、「劇画」誕生にあたって重要な役割を果たした。貸本漫画家時代の別明記に、マイク浜、あさひ昇、江戸五郎などがある。

1970年代以降は、社会の底辺に位置する人々の悲哀や屈折を陰鬱なタッチで描いた作品を『ガロ』などに多数発表する。それらの作品群は海外を中心に高く評価され、日本におけるオルタナティヴ・コミックの第一人者として広く認知されている。目次

1 略歴

2 賞歴

3 作品リスト

3.1 国内

3.2 日本国外版

3.2.1 英語版

3.2.2 フランス語版

3.2.3 スペイン語版

3.2.4 イタリア語版

3.2.5 インドネシア語版

3.2.6 ポルトガル語版

3.2.7 ポーランド語版

3.2.8 中国語版

3.2.9 韓国語版



4 脚注

5 参考資料

6 外部リンク

略歴

大阪市天王寺区に生まれる。太平洋戦争の激化により、大阪府箕面市へ。次いで豊中市蛍池に疎開して、豊中で育つ。

少年時代から漫画好きで、2歳年上の兄・義興(のちの桜井昌一)と共に、特に手塚治虫の漫画に熱中する。

中学時代から漫画家を目指し[3]、実家の経済的困窮もあり、豊中第二中学校時代から、兄と共に、雑誌『漫画少年』他、多数の雑誌の読者投稿コーナーに盛んに投稿し、たびたび入選して賞金を獲得。1950年2月には、京都の丘西克明ら同年代の漫画家志望者6名で「子供漫画研究会」を作り、肉筆回覧雑誌『漫画の明星』を4号まで発行。また、同年9月には、毎日中学生新聞に掲載された「子供漫画家たちと手塚治虫の座談会」に出席。手塚の知遇を得て、その後の手塚の上京まで、何度も宝塚の手塚の実家を訪問する。

1951年に、大阪府立豊中高等学校に進学。同年、兄の勧めで大城のぼるに手紙を書いて返事をもらい、描き上げた中編・長編漫画を送って批評をもらうようになる。辰巳が描いた長編漫画「愉快な漂流記」が評価され、大城の作画によって原作者としてデビューすることになる[4]

1952年には、大城から上京して弟子になるよう勧められるが、悩んだ末断る。同年、執筆した長編「こどもじま」を大城に郵送したところ、かねてから親好があった大城の弟子のオオトモヨシヤスが知り合いの編集者に紹介、1954年3月に鶴書房より単行本として刊行され、ついに漫画家デビューとなる。

高校卒業を控えて、京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)を受験するが、実家の経済的な事情を考えて、進学を断念。

高校卒業後の1954年、さまざまな大阪の貸本出版社に持ち込みをした後、八興社(日の丸文庫)を訪問。山田秀三社長・山田喜一専務の兄弟、顧問の久呂田まさみらに「七つの顔」が採用されて刊行。以降「日の丸文庫専属」のような形で貸本漫画を執筆するようになる(他社で仕事をする際は、ペンネームを用いた)。また、後にライバルとなる松本正彦とも出会う。

また、1955年の「開化の鬼」以降、映画的な表現を取り込んだシリアスな作品を発表。1956年4月から、久呂田の発案で日の丸文庫から短編雑誌『影』が発刊され、メイン作家として人気を博す。

だが日の丸文庫は、新たに企画した「大人漫画」の作家たちの新書版単行本の売り上げ不振で、1957年に倒産。久呂田の勧めで、名古屋のセントラル出版が企画した『街』に参加。だが同年秋に日の丸文庫が「光映社」として再建されたため、新生『影』の編集長に抜擢される。一方、貸本漫画業界は『影』の影響で探偵物の短編集ブームが起こり、さまざまな出版社の雑誌に寄稿。

1957年末、『街』に描いた作品「幽霊タクシー」にて、ハードボイルド小説の影響も多大に受けた自身のシリアスな作風を従来の「漫画」と区別するため、作品表紙に「劇画」という表記を使用(なお、この頃、同じように既成の漫画とは異なる表現を追求していた松本は、自身の漫画を「駒画」と呼んでいた)。

1958年には、セントラル出版の東京進出のための誘いもあり、さいとう・たかを、松本とともに上京し、国分寺に住まう。

1959年兎月書房から新雑誌『摩天楼』の刊行にあたって、日の丸文庫出身の若手作家たちと「劇画工房」を結成[2]。メンバーは辰巳、石川フミヤスK・元美津、桜井、山森ススム佐藤まさあき。後にさいとう、松本も参加した。

だが貸本漫画業界に訪れた劇画ブームのため、メンバーの足並みが揃わず、1960年に辰巳、さいとう、松本は「劇画工房」から脱退。

その後は、衰退する貸本業界の中で、1963年に自身の出版社「第一プロ」を設立(のち、「ヒロ書房」と改名し、1971年まで活動)。また、1960年代後半以降、『ガロ』やメジャー少年誌などで大々的な「劇画ブーム」が起こるが、劇画の生みの親である辰巳は、ブーム化して乱造された「劇画」に幻滅する。1968年には、「劇画と決別するため」の著書、『劇画大学』を刊行する。

以降、辰巳は主に社会の底辺に位置する人々を主人公とした陰鬱な短編作品を発表するようになる。また、1990年代以降は、主に仏教関係の漫画作品を発表している。一方で、1950年代SF短編の味わいの再現を狙った連作短編『SFもどき』など、時おり多彩な試みに挑むことも忘れてはいない。

1980年代以降は、日本国外に作品が紹介され、「下層労働者の心情を初めて、リアルに描写した漫画家」として高い評価を得るようになる。また国内でも、2002年青林工藝舎から刊行された『大発見』以降、再評価が進んでいる。

1986年には、神保町で漫画専門の古書店「ドン・コミック」を開店する。(かつては店舗販売も行っていたが、万引きが多いため2002年からは目録販売専門店となった。現在は閉店)

2005年、アメリカの漫画家エイドリアン・トミネの尽力により、カナダのオルタナティヴ・コミック出版社ドローン&クォーターリーからオリジナル作品集 The Push Man and Other Stories が刊行された。それ以降もトミネの編集による作品集が続けて刊行され、辰巳は英語圏での名声を確立した[5]

2008年には「まんだらけ」のカタログ誌に1995年から2006年まで11年に渡り連載された半自伝漫画『劇画漂流』が青林工藝舎から刊行。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef