辟奚(へきけい、334年? - 375年?)は、吐谷渾の首長。砕奚(さいけい)とも書かれる。 葉延の長男として生まれた。葉延が死去すると、後を嗣いだ。371年、仇池の楊纂が前秦の苻堅の侵攻を受けて降ると、辟奚は恐れて前秦に遣使し、馬50匹と金銀500斤を献上した。安遠将軍の号を受け、?川侯に封じられた[1]。 ときに辟奚の3人の弟が好き勝手に国政を壟断していたため、長史の鍾悪地が司馬の乞宿雲と密議して3人を殺害した。辟奚は性格が優しかったため、弟たちの死に衝撃を受けて、国政を執れなくなってしまい、世子の視連が摂政した。 在位25年して死去した。享年は42。6人の子があり、視連が後を嗣いだ。 先代
生涯
脚注^ 『晋書』苻堅載記上
参考資料
『晋書』四夷伝
『宋書』鮮卑吐谷渾伝
『魏書』吐谷渾伝
『北史』四夷伝下
葉延吐谷渾の首長
第4代:351年? - 375年?次代
視連