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辞世(じせい、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:辭世)とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈、和歌、発句またはそれに類する短型詩の類のことを指す。 辞世と言えば一般に、この世を去る時に詠む短型詩のことを言うが、これは東アジア固有の風俗である。基本的にはあらかじめ用意された作品のことを指すが、末期の床でとっさに詠んだ作や、急逝のために辞世を作るいとまがなくたまたま生涯最後の作品となってしまったもの(以上のような例を「絶句」として区別する場合がある)も広い意味での辞世に含む。内容的には自らの生涯を振り返っての感慨や総括、死に対する想いなどを題材にする。 風俗としての起源ははっきりしないが、日本では、自らの死を悟って歌を残した例は『万葉集』巻第三「雑歌」416番の大津皇子や巻第五「雑歌」885番の大伴熊凝に見られ[1]、少なくとも律令時代にまでさかのぼる。 特に中世以降の日本において大いに流行し、文人の末期や切腹の際には欠かせない習いの一つとなった。この場合、最もよく用いられた詩形は和歌である。これは禅僧が死に際して偈を絶筆として残す風俗に、詩形としての和歌の格の高さ、王朝時代以来の歌徳説話 江戸期には偈による辞世がほとんど姿を消すと同時に、和歌形式が狂歌や発句に形を変えてゆくのが一般的な風潮になった。和歌にはない俗や笑いを持ち込める形式が辞世として多く用いられるようになったことで、明るく、軽く、死を描きながら一皮めくるとその裏に重大なものが息づいているという繊細なポエジーが成立し、江戸期は辞世文学における一つの頂点を迎えるといってよいだろう。また、政治的な理由で死を選ばざるを得なかった人々が辞世に漢詩の詩形を用いたこともこの時代の一つの特徴であり、これは自らの社会的な志を述べるのにこの詩形が最もよく適していたことを示している。
概要
由来
有名な辞世(順不同)
漢詩
「孔曰成仁 孟曰取義 惟其義尽 所以仁至 読聖賢書 所学何事 而今而後 庶幾無愧」 - 文天祥
「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」 - 明智光秀
「吾今為国死 死不背君親 悠悠天地事 鑑照在明神」 - 吉田松陰
「望門投止思張倹 忍死須臾待杜根 我自横刀向天笑 去留肝胆両崑崙」 - 譚嗣同
偈
「四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒」 - 上杉謙信(「嗚呼柳緑(而)花紅」と続く資料もある)
「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」 - 快川紹喜(元は杜荀鶴の漢詩の一部)
和歌、狂歌
「鴨山に 岩根し枕ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ」- 柿本人麻呂
「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」- 在原業平
「夜もすがら 契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき」 - 藤原定子
「生まれては つひに死ぬてふ 事のみぞ 定めなき世に 定めありける」- 平維盛
「願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ」― 西行
「かゑらじと かねておもへば 梓求Bなき数に入る 名をぞとゞめる」- 楠木正行
「討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観」 - 大内義隆
「何を惜しみ 何を恨まむ もとよりも このありさまの 定まれる身に」 - 陶晴賢
「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」 - 足利義輝
「友を得て なほぞうれしき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は」 - 毛利元就
「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代はる 我が身と思へば」 - 別所長治
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」 - 清水宗治
「さらぬだに 打ぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな」- お市の方
「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」 - 柴田勝家