辜鴻銘
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辜鴻銘

プロフィール
出生:1857年7月8日
死去:1928年民国17年)4月30日
中華民国北京市
出身地: イギリス海峡植民地ペナン
職業:学者
各種表記
繁体字:辜鴻銘
簡体字:辜??
?音:G? Hongming
ラテン字:Ku Hung-ming
和名表記:こ こうめい
発音転記:グー ホンミン
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辜 鴻銘(こ こうめい)は清末民初の学者。中国の伝統文化と西洋の言語・文化の両方に精通しており、西洋人に東洋の文化と精神を称揚し、大きな影響を与えた。字の湯生は英語名のトムソンから来ている。
生涯

1857年イギリス海峡植民地(現在のマレーシア)のペナンで生まれる。父親は福建省出身の中国人でゴム農場の管理人、母親はポルトガル人である。1867年、ゴム農場オーナーのブラウンに伴われてスコットランドへ渡る。1870年ドイツに留学。イギリスに戻った1877年エジンバラ大学に入学し、西洋文学を専攻した。1877年に卒業した後、ドイツのライプツィヒ大学土木工学を学び、さらにフランスパリ大学で法学を学んだ。1880年、ペナンに帰郷。翌年に馬建忠と会って3日間話し込んだ結果、思想に大きな変化が現れ、植民地政府の仕事をやめて中国文化を学ぶようになった。1885年、清に赴き張之洞の外国語担当の秘書を20年間務めた。この間四書の『論語』『中庸』『大学』を英訳している。1905年、上海黄浦江浚渫局の局長となった。1908年宣統帝が即位すると外交部侍郎に任命された。1910年には上海の南洋公学(現在の上海交通大学)監督となった。1911年辛亥革命後公職を去るが、1915年北京大学の教授に任命され、イギリス文学を講義した。しかし1923年、学長の蔡元培が免職されるとこれに抗議して辞任した。1924年から日本で講演活動を行い、1927年に帰国。翌年に北京で死去した。
思想とエピソード

「生在南洋、学在西洋、婚在東洋、仕在北洋」と称した。

著書の『The Spirit of the Chinese People』で中国人の美点を『温良』(gentleness)としている。

保皇派で辛亥革命後も
辮髪を続け、一夫多妻制を肯定した。

中国語英語ドイツ語フランス語イタリア語ギリシア語ラテン語日本語マレー語を自在に操った。

芥川龍之介サマセット・モームラビンドラナート・タゴールなど様々な文学者が、中国を訪れた際に辜鴻銘のもとを訪ねている。

著書

Papers from a Viceroy's Yamen:a Chinese Plea for the Cause of Good Government and True Civilization(『総督衙門論集』)、1901

ET nunc, reges, intelligite! The Moral Cause of the Russia-Japanese War(『日俄戦争的道徳的原因』)、1906

The Story of a Chinese Oxford Movement(『中国的牛津運動』)、1910

The Spirit of the Chinese People(『中国人的精神』または『春秋大義』)、1915

日本語訳

魚返善雄・訳『支那人の精神』(目黒書店、1940年)

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