辛酉政変(しんゆうせいへん)は、西太后・東太后・恭親王奕?らが、粛順一派を排除した清朝でのクーデターである。祺祥政変ともいう。
概要、鄭親王
西太后は東太后と奕?、妹の夫である醇郡王奕?(奕?の弟)と結び八大臣との権力闘争を始めた。9月14日、御史の董元醇は皇太后の垂簾聴政と近親の親王の補佐を求める上奏を行ったが、八大臣は今まで清朝にそのような例はなかったとして反対した。奕?は北京で大学士桂良、賈禎、周祖培、戸部尚書沈兆霖、刑部尚書趙光、さらには北京周辺の兵権を握る欽差大臣・兵部侍郎勝保とセンゲリンチンの支持を取り付けた。
10月26日、咸豊帝の棺が熱河から北京に運ばれたが、西太后は粛順に棺を護送させて、自分と東太后と載淳は先に北京に入った。北京に入ると即座に奕?とクーデターを起こして、11月2日に載垣と端華を逮捕し、奕?を派遣して密雲県で粛順を捕縛した。
11月3日、奕?を議政王とし、桂良ら5人を軍機大臣とした。8日、詔を下して載垣と端華に自害を命じ、粛順を斬首し、その他の5名を免職とした。11日、載淳が皇帝に即位。八大臣が決定した年号の「祺祥」を取り消し、「同治」の年号が採用された。こうして西太后と奕?が清朝の実権を握ることとなった。
政変の手柄で奕?は爵位が上がり醇親王となったが、奕?と奕?の兄の惇親王奕?はクーデターを粛順に密告したため登用されることはなかった。
参考文献
並木頼寿・井上裕正『世界の歴史19 中華帝国の危機』P109 - P114、中央公論社、1997年。
加藤徹『西太后 大清帝国最後の光芒』P102 - P122、中公新書、2005年。
関連項目
洋務運動