輔弼(ほひつ)とは、天皇の行為としてなされるべき、あるいは、なされざるべきことについて進言すること。特に大日本帝国憲法下において、天皇に大権(天皇大権)の施行に過誤がないよう意見を進言することを意味した概念[1]。 1868年2月(慶応4年〈明治元年〉2月)に三職八局を置いたとき、総裁局に副総裁に次ぐ官職として輔弼(定員2人)を置き、これ議定職として宮・公卿をこれに任ずるとした[2]。議定の中山忠能と正親町三条実愛を輔弼に任じた[3]。 正院制度にはさまざまな矛盾点が存在したため、1873年には再び改革がなされたものの(このときに「内閣」という用語が登場)、太政大臣と左右大臣のみが天皇の「輔弼」を担う、という枠組みに変更はなかった。征韓論の問題において、正院の決定が明治天皇の聖断により覆されたのも、右大臣(太政大臣代理)岩倉具視が西郷隆盛ら参議達にはない天皇の「輔弼」権限を保有していたからである。岩倉は自身が持つ「輔弼」権限を利用し、その政治的影響力を長く行使し続けた。また、元田永孚や佐々木高行ら宮中グループの台頭も大臣の「輔弼」権限を背景にしたものであった。 一方、伊藤博文は岩倉達に対抗するため、参議と内閣の地位向上に腐心することになる。参議省卿分離論と呼ばれる構想がそれであり、1880年の太政官中六部分掌事務
官職としての輔弼
前史が導入され、このうち最高機関である正院においては、天皇の臨御の下、太政大臣、納言(左右大臣)、参議の三職がおかれることになる。三職のうち、天皇を「輔弼」することができるのは前二者のみであり、参議は前二者を「補佐」することしかできないとされ、天皇との距離が明確に区別されていた。
明治十四年の政変による混乱を収拾するのに主導的な役割を果たした伊藤は、天皇親政指向の井上毅らと協調し、「輔弼」をめぐる参議と大臣の格差を埋める改革に着手するものの、その実行のためには岩倉の死を待たねばならなかった。岩倉の死後、1885年、空位となった右大臣の後任に伊藤を当てようと明治天皇と三条実美は動くが、制度の抜本的な改革を志向する伊藤に拒絶され、伊藤が導入を主張する内閣制度を取り入れざるをえなくなる。1885年12月には内閣職権が導入され、一般国務においての「輔弼」権限の内閣の独占がうたわれた。ただし、軍機事項においては、軍部の「輔弼」を認めている。また、宮中における「輔弼」については、太政官達68号
において「常侍輔弼」の制を明記し、内大臣(初代:三条実美)と宮中顧問官[注釈 1]をそれに当たらせることにより、三条や宮中グループに一定の配慮を示した。ただし宮中の事務につき輔弼する宮内大臣には、それまで宮内卿であった伊藤が引き続く形で就任した。伊藤と井上は大日本帝国憲法の起草に大きな役割を果たしたが、内閣と天皇をめぐる両者の思想は全く異なるものであり、帝国憲法には両者の妥協ともいえる規定の欠如が存在しており、大日本帝国憲法における内閣規定の欠如もその一つである。内閣の独自性を肯定する伊藤と天皇権力の内閣による制約を危惧する井上との妥協が図られたため、後の日本国憲法にみられるような内閣総理大臣の首長性と主権者に対する内閣の連帯責任規定のようなものは設けられず、上記のような各国務大臣の単独輔弼規定が設けられるに留まった。1889年には内閣官制が設けられているが、内閣総理大臣の地位の低下がみられる一方で、内閣の一体性を保つ配慮が図られた。一方で軍の帷幄上奏権は引き続き維持された。
伊藤と井上の妥協の産物としては枢密院の設置もあげられている。1888年の枢密院官制が成立し、枢密院は内閣と共に天皇の輔弼機関であると定められ、ここでも内閣の地位の後退がみられる。なお、初代の枢密院の議長は伊藤である。後に伊藤が枢密院議長を辞職すると、明治天皇の要請により元老制度が導入され、伊藤は黒田清隆と共に最初の元老となった。