輔子内親王
時代平安時代中期
生誕天暦7年(953年)
薨去正暦3年3月3日(992年4月8日)
位階二品
父母父:村上天皇、母:藤原安子
兄弟承子内親王、理子内親王、保子内親王、規子内親王、広平親王、冷泉天皇、致平親王、盛子内親王、為平親王、楽子内親王、輔子内親王、昭平親王、緝子内親王、資子内親王、昌平親王、円融天皇、選子内親王、具平親王、永平親王
斎宮安和元年7月1日(968年7月28日)- 安和2年11月4日(969年12月15日)
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輔子内親王(ほしないしんのう)は、村上天皇の第7皇女。母は中宮・藤原安子(右大臣・藤原師輔の娘)。伊勢斎宮。同母兄弟姉妹に冷泉天皇、為平親王、円融天皇、承子内親王、資子内親王、選子内親王。二品。 応和元年(961年)11月、妹の資子内親王とともに父である村上天皇との対面の儀を行う。応和4年(964年)4月に母の安子が死去。康保2年(965年)8月27日、初笄を行う。康保4年(967年)5月には父の村上天皇が崩御。 安和元年(968年)7月1日、冷泉天皇代の斎宮に16歳で卜定され[1]、同年12月25日(969年)に右近衛府を初斎院に定めて入った[2]が、翌安和2年(同969年)11月4日、冷泉天皇の譲位によりそのまま退下した[3]。正暦3年(992年)3月3日、40歳で死去。 輔子内親王の死については、『大鏡』に「御物のけこはくてうせ給にき」(生霊死霊などの祟りが強くて亡くなられた)とあり[4]、同母兄・冷泉天皇と同じく精神を患った可能性がある。
経歴
脚注^ 『日本紀略』安和元年七月一日壬午条
^ 『日本紀略』安和元年十二月廿五日癸酉条
^ 『日本紀略』安和二年十一月四日丁未条
^ 『大鏡』「右大臣師輔」
歴