万平ホテル
ホテル概要
正式名称万平ホテル
デベロッパー森トラスト
運営株式会社万平ホテル
前身旅籠・亀屋
→亀屋ホテル
→萬平ホテル
レストラン数3軒
部屋数109室
開業1894年
最寄駅JR・しなの鉄道軽井沢駅
最寄IC上信越自動車道碓氷軽井沢IC
所在地〒389-0102
長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢925
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度21分27秒 東経138度38分31秒 / 北緯36.35750度 東経138.64194度 / 36.35750; 138.64194
万平ホテル(まんぺいホテル、MAMPEI HOTEL)は、長野県北佐久郡軽井沢町にある老舗ホテルである。軽井沢万平ホテルとも呼ばれる。運営は森トラストのグループ企業である株式会社万平ホテル。 江戸時代後期に、佐藤万右衛門が万平ホテルの前身となる旅籠「亀屋」を旧軽井沢銀座(現在の軽井沢郵便局付近)に開業。1886年(明治19年)、避暑地としての軽井沢を、イギリスに気候・建物の雰囲気が似ていることもあり[2]高く評価し、後に軽井沢を日本の代表的な避暑地として世界に向けて紹介した聖公会宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーと、その友人の東京帝国大学英語教師ジェームズ・メイン・ディクソンが休業状態に陥っていた亀屋を訪れた[3]ことがきっかけとなり、当時の亀屋の主人であった佐藤万平(初代)は、外国人に応対する技術や生活習慣を学んだ。それを反映させる形で1894年(明治27年)に亀屋ホテルがオープン。現在はこの年に万平ホテル創業という位置付けがされている。 1902年(明治35年)、ホテルを旧軽井沢銀座から桜の沢に移転した[3]。また、名称を現在の「万平ホテル」にし、シャトー風の外観を持った西洋建築のホテルを新築、本格的なホテル営業を開始した。1918年(大正7年)の初代佐藤万平死去後、万平の娘婿であり、万平と二人三脚でホテルを創り上げてきた佐藤国三郎が「二代目万平」を襲名。現在カフェテラス脇にある銅像は国三郎である。1936年(昭和11年)に西洋建築の本館が解体され、現在の本館アルプス館が完成。設計は日光金谷ホテルも手掛けた久米権九郎[4]、施工は井上組である。ドイツで確立した久米式耐震木構造のベースに、信州の民家風のデザインを取り入れた結果、スイスやドイツの山荘などに見られるハーフティンバー風の外観となった[5]。 1943年(昭和18年)、太平洋戦争に伴い、軽井沢が外国人の強制疎開地に指定されたことを受けて、開戦当時日本と交戦状態になかったソ連とトルコの大使館が万平ホテルに疎開。2年後の1945年8月には、日本を占領下に置いた連合国軍の1国であるアメリカ陸軍第8軍の接収により全館が営業を停止する。このとき、GHQの要請で冬季営業が可能となるように改造を施し、連合国軍将校向け宿泊基地としての機能を果たした。1952年に、アメリカ陸軍による接収が解除され通常営業を再開した。 2000年代に入って、2006年の毎日新聞社主催・ヘリテージング100選や、2007年11月30日、経済産業省の近代化産業遺産に認定されるなど、近代遺産としての評価を受けている。 2018年(平成30年)には万平ホテルアルプス館が登録有形文化財(建造物)に登録された[6]。 各国大使・公使をはじめ、東郷平八郎、室生犀星、堀辰雄、佐佐木信綱、幸田延、小泉信三、田中耕太郎、円地文子、池波正太郎、三島由紀夫、辛格浩、ウォルター・ウェストン、カール・シャウプ、ジョン・レノン、秋篠宮家など、多くの著名人が宿泊した。
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