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出典検索?: "輜重" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年12月)
輜重(しちょう)は、軍隊で、前線に輸送・補給するべき兵糧、被服、武器、弾薬などの軍需品の総称のこと。 輜重を重視した軍人として、近代軍制を確立したフランスのナポレオン・ボナパルトがいたが、軍用食の長期保存を目指して「瓶詰」を開発させるも、重く割れやすい問題があり、これを19世紀初頭のイギリスが「缶詰」として改善し、19世紀末には日本においても作られる。缶詰は明治時代ではまだ軍需品という扱いであり、民間には普及していない(「ナポレオン・ボナパルト#功績」と「缶詰#歴史」を参照)。 日清戦争の勝利により日本は巨額賠償金を得ることで明治30年代(1897年-1906年)に国内産業の近代化に成功する[1]。 日露戦争後、ロシア側の司令官アレクセイ・クロパトキンの戦争回想録を陸軍参謀本部が和訳した『クロパトキン回想録』を乃木希典も読み込んでおり(明治43年6月から明治45年2月までの間)、特に指揮官が官房的職務を行うことを問題視して嫌い、クロパトキンが「ロシア軍の高級軍人が、経理や輸送などの文書業務に忙殺されていた弊害」に対し、共感して丸をつけ、「その連隊長の如きは、戦術上の欠点より、むしろ時宜に適さざる輜重の着装に対し、責任の重きを置けるは、2、3長官の親しく知る所なり」と記している[2](指揮官の輜重に対する文書業務負担は周知であると)。乃木が理想とする指揮官像では輜重は仕事ではないとする点において、クロパトキンに共感を覚えていた(前同p.150.)。 第一次世界大戦では、戦地圏外であった日本は特需景気となり、戦争当事国に兵器・軍需品・食料品を輸出し、工業生産の増大・重化学工業化が進展する(詳細は「大戦景気 (日本)#貿易の飛躍的な発展」を参照)。製造される缶詰の生産量も約2万トンから7万トンへと増加し、1930年代の満洲事変以降ではさらに生産量が34万を超え、輸出量が17万トンを超える(「缶詰#歴史」参照)。 第一次大戦において、戦争と科学技術が本格的に結びついたことで、科学者共同体が戦争遂行のために組織的に動員され、結果として、軍事技術のみならず、軍需物資の補給にも積極的に活用されることとなる[3]。これらは科学技術の制度化や予算拡大を働きかけようとした指導的な科学者側も関係し、当時の職業軍人はむしろ新しい科学技術に対しては懐疑的であることが多かった[4]。 明治時代中頃まで戦傷には晒(さらし)が用いられていたが、のちに包帯へと移行し、1929年(昭和4年)からは機械による大量生産が始まっている(「包帯#包帯の歴史」を参照)。 1930年(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮会議では、それまで兵力量は内閣が決定し、統帥部
その他の用法
旅行者の荷物なども輜重という。
由来
「輜」は被服を載せる車のこと、「重」は荷を載せる車のことから。『漢書列伝竺桃抄』(15世紀中頃。現存する最古の抄物)に記述がある。
各国の軍服については、「各国軍服関連記事一覧」を参照。
大日本帝国陸軍では「行李」で運ばれた。
規模と負担
第二次世界大戦時では国家総力戦の拡大と長期化にともなって軍需物資が不足し(日中戦争以降の「ぜいたくは敵だ」といったスローガンと共に)、金属類回収令(1941年)や学徒勤労動員(1943年)などによってそれを補う形となり、次第に国民生活を圧迫・崩壊させていった[6]。1942年(昭和17年)には子供が軍馬の馬糧となる干し草作りを課されている[7]。国家予算に占める軍事費も1944年にはピーク(300憶円超。日中戦争開戦時は100億円以下)に達した[8]。
さらに自国の物資輸送を補う形として、戦地では鹵獲・現地調達(乱妨取り・略奪)が行われた[9](作戦としては、赤壁の戦いにおける「草船借箭の計」=囮を使って敵に矢を射かけさせて、そのまま自軍の物資とする策が挙げられる)。
作戦参謀主導であったため、兵站参謀の意見は軽視され、インパール作戦(1944年3月)では(兵站参謀の補給は無理だという反対にもかかわらず)「ジンギスカン戦法」で牛(実際は水牛)を連れて行くも[10]、失敗している(詳細は「インパール参戦#準備および戦場の状況」を参照)。
戦中、防寒具として重宝されたムササビの毛皮は学校教員の月給に匹敵するほど高騰している(「ムササビ#人との関係」を参照)。飛行服にはヌートリアの毛皮が用いられた(「飛行服#日本」の旧日本軍を参照)。また戦時体制下に定められた国民服は、(国民皆兵の意識から)軍服に容易に転換できる服として普及していく(「国民服」参照)。
輜重の損失は、開戦による消耗や敵軍による攻撃だけとは限らず、輸送中の事故でも起き、1944年12月に起きた沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故では(翌年3月の沖縄戦を前にして)大量の弾薬と兵士を失っている(また自然災害による兵器被害もある。「備考」参照)。
敗戦後の混乱から軍需品が民間に流入し、社会問題となった例として、メタンフェタミン(日本ではヒロポンで知られる)の注射剤が若者の間で乱用された(「メタンフェタミン#歴史」参照)。さらに戦中において国民から接収した軍需物資が戦後に政界へと流れた隠退蔵物資事件も発覚することとなる。一方で、軍需品から戦後民間に広く利用されたものとしては、軍手・軍足が挙げられる(各項目参照)。 律令時代初期の奈良時代、国家に徴集された防人は、難波の港から九州に至る間の食料は公給とされ(部領使も参照)、現地では土地も支給されたことから下級国家公務員の扱いとなるが、裏を返せば、東国人などは難波に辿り着くまで自弁(自己負担)であった(奴婢同伴は許されていた)[11]。『養老令』「軍防令」兵士条の記述として、防人に必要とされた装備と必需品は、笠・刀子・弓弦袋(弦の予備2本)・脛巾(はばき、後の脚絆)・鞋(からわらぐつ)・矢50本・大刀・飯袋・水桶・塩桶・砥石・塩2升・乾飯9升と記述される[12]。
近代以前