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やノートページでの議論にご協力ください。『軍艦行進曲』(ぐんかんこうしんきょく、英語:Warship March, March “Man-of-war”)または行進曲「軍艦」は、鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲の海軍軍歌「軍艦」に、大伴氏言立、東儀季芳作曲の「海行かば」をトリオに加え行進曲として成立した。一般に「軍艦マーチ」として広く知られ、ミャンマー国軍の公式軍歌としても採用されている[1][2]。海上自衛隊の儀礼曲でもある。
解説海軍時代の瀬戸口
1893年(明治26年)鳥山啓作詞の「軍艦」(初出からこの曲名、一部文献に此の城とあるも事実無根)に曲を付けて軍歌とし、その後、1897年(明治30年)頃に、准士官相当官の軍楽師だった瀬戸口藤吉が新たに作曲し、1900年(明治33年)に「軍艦行進曲」として誕生した(この当時、軍楽科の最高階級は軍楽師であった。昭和18年には軍楽少佐までの階級が設けられた。)。
初演は、同年4月、戦艦富士乗組の軍楽隊によって行われたが、民間も含め広く演奏されるようになったのは1910年(明治43年)に妹尾楽譜店から楽譜が出版された以降である。1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦時にも繰り返しラジオから流された。海軍省の制定行進曲であり、海上自衛隊でも、海上幕僚監部通達により儀礼曲の一として「軍艦行進曲」の名称で制定されており、進水式や出港式典などで奏楽されている他、観閲行進曲として奏楽されている。
軍艦マーチの著作権は、長らく日本ポリドール蓄音機会社にあったが、1938年1月10日、同社は私有すべきではないとして海軍に献納した[3]。戦後の権利者は不明であるが、いずれにせよ瀬戸口の死後50年経過した1991年に著作権の保護期間は終了、パブリックドメインになっている。
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浮?かべる城ぞョ(たの)みなる
浮?かべるその城日の本の
皇國(みくに)の四方(よも)を守るべし
眞鐵(まがね)のその艦(ふね)日の本に
仇(あだ)なす國(くに)を攻めよかし
石炭󠄁(いはき)の煙󠄁は大洋(わだつみ)の
龍󠄂(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
彈(たま)?(う)つ響󠄃きは雷(いかづち)の
聲(こゑ)かとばかり響󠄃(どよ)むなり
萬里(ばんり)の波濤(はたう)を乘り越えて
皇國(みくに)の光輝かせ
演奏
当初は変ロ長調で作曲されていたが、のちにヘ長調へ変更されており、作曲者自筆の合唱譜もヘ長調である。なお、明治43年に出版されたピアノピースではトリオの指使いをしやすくためか、下記のようにト長調とした[4]。
初期では、"演奏→1番→海ゆかば→2番"という順で歌われたが、現在では、"1番→2番→海ゆかば→演奏"というのが一般的である。
また、トリオ部の「海行かば」が歌われない場合、間奏が長いこともある。
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[5] 当初は変ロ長調であったが、音が高すぎて(男性の軍人が)歌うのが難しかったためト長調に編曲され、さらに大正時代末期にはヘ長調へと改訂され、現在の曲となった。戦前は主旋律は4回流れることが多かったが、現在では3回とされている。 海軍では改訂されるごとに演奏を変えていたが、陸軍では海軍から供与された古い楽譜を長い間使用していたため、同時期であっても海軍と陸軍とではやや違った演奏で録音されている。また、昭和初期の電気録音開始以後の民間軍楽団などによる録音などでも、依然古い楽譜で演奏しているものも多い。 現在では海上自衛隊の儀礼曲に指定され、 ⇒儀礼曲の統一についての通達によって に演奏することとされている。
変遷
観閲式における観閲行進の場合
自衛艦旗授与式における乗組員乗艦の場合
自衛艦命名式における進水の場合
その他必要と認められる場合
使用
近年は少ないが、戦後から長らくパチンコ店の定番BGMとして使われている。1951年(昭和26年)春に、東京・有楽町のパチンコ店の拡声器から軍艦行進曲が大音量で流れ出した。丸の内署の巡査が経営者を米軍憲兵隊(MP)本部へ連行し、係官にレコードを聴かせたところ「(歌詞のない)音楽だから問題ない」と了承した。谷村政次郎は、これが軍艦行進曲がパチンコ店から流れるきっかけになったようだとしている[6]。当時は他にも大阪のストリップ劇場で開始時の音楽になっていたりした[7]。1980年代まではパチンコ店のCMのBGMとしても使用された。また、北電子発売のジャグラーシリーズ(『アイムジャグラーEX』他)では、自力でビッグボーナスの1G連を引き当てた際など、特定のゲーム数で成立したビッグボーナス中のBGMとして使われている(ビッグボーナス中の払い出し音は、かつてパチンコ店で行われていた「ジャンジャンバリバリ」のアナウンスになる)。
ミャンマー軍では軍艦行進曲の曲を流用した軍歌である「?????????? ????????」(ビルマ・ドゥーイェ・タッマドゥ、Myanmar Tot Ya Tatmadaw)を使用しており、軍が運営するテレビ局の朝の開始音楽にも採用されている。大東亜戦争(太平洋戦争)末期、日本で教育を受けたアウンサン将軍以下「三十人志士」を中心にビルマ軍は創設されたが、日本軍による教育はすべて日本語であり、その際に多くの日本の軍歌を覚えたうち一番人気が「軍艦」のメロディーだったといわれる。このため、この曲にミャンマー語の歌詞を付け、未だに歌われているほか、首都ネピドーにある世界最大規模の敷地面積の軍事博物館内にBGMとしてこの「軍艦」と「愛馬進軍歌」が常に流されている[2]。