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軍法会議(ぐんぽうかいぎ、court martial)とは、主として軍人に対し司法権を行使する軍隊内の機関。一般的には軍の刑事裁判所として知られる。軍事裁判所、軍事法廷とも。 多くの国においては、当該国の軍隊について軍法会議が設置されている。その主たる目的は軍紀(軍人軍属の紀律)を維持することにあるが、近代以降では副次的に軍人の権利擁護も目的となる。また、軍法会議とともに軍紀の維持を達成するための機関として、軍隊内には警察機関(憲兵)や検察機関(法務士官)、軍事刑務所・矯正機関といった一連の刑事機構・司法機関が設けられている。 軍紀を維持する機関は古代から存在している。例えば、日本でも戦目付にそれを見ることができる。軍法会議については、イングランドのエドワード1世の法律(1279年)に軍法会議の規定を見つけることができる。近代法的な軍法・軍法会議は、1621年にスウェーデンのグスタフ2世が定めた法典が始まりといわれ、諸国に影響を与えた。 裁判管轄、行使する司法権その他各種制度機構は、国により異なる。例えば、大日本帝国憲法下の日本では軍事司法権として一般の司法手続きから完全に独立していたが、アメリカ合衆国では独立しておらず、連邦最高裁の審査が及ぶ。通常裁判に比べると、職業裁判官ではない軍人が裁判官役を担う、機密保持などの理由から審理が非公開、迅速性を重視して上訴が制限されるなど手続保障が弱い傾向がある。軍法会議を常設はしていない国もある。戦時に軍人以外を軍隊が裁く準司法機関として軍律会議の制度を有する例もある。 日本の軍法会議は、1869年に兵部省に置かれた「糺問司(きゅうもんし)」をはじめとする。その後、1872年に陸海軍に「軍事裁判所(陸軍裁判所
概要
各国の軍法会議
日本
大日本帝国陸海軍
沿革
1941年に太平洋戦争が始まると、1944年7月までに高等軍法会議を除く、全ての常設軍法会議は廃止され、臨時軍法会議に移行した。戦局の悪化と共に、敵中に孤立する部隊が増加し、1945年になると法務官不在でも軍法会議が開廷できるように処置された。同年の厚木航空隊事件で小園安名らが裁かれたのが、日本海軍最後の軍法会議となった。内地の軍法会議は1945年12月に廃止され、その記録は全て地方裁判所に移管された。外地においては1947年2月まで、軍法会議は存続し、終戦後でも、敵前逃亡や上官殺傷などで審判が行われる例は少なくなかった。
「第一復員裁判所及第二復員裁判所令」(1945年11月24日勅令第658号)により、高雄警備府軍法会議を除く軍法会議が廃止され、復員裁判所が臨時に設置された。更に「昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク陸軍軍法会議法、海軍軍法会議法及第一復員裁判所及第二復員裁判所令廃止ニ関スル件」(1946年5月18日勅令第278号)が制定され、1947年の陸軍刑法廃止にともなう同法の改正により、日本の軍法会議制度は完全に消滅した[1]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに第一復員裁判所及第二復員裁判所令の原文があります。ウィキソースに昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク陸軍軍法会議法、海軍軍法会議法及第一復員裁判所及第二復員裁判所令廃止ニ関スル件の原文があります。 軍法会議の目的は、「軍隊指揮権を強固に維持し、指揮命令系統を守る」ことにある。必ずしも真実発見が優先される訳ではない。したがって軍隊指揮権者と、軍法会議長官とは必ず兼任される。大日本帝国軍の軍法会議の場合、親補職にある軍隊指揮官(具体的には師団長以上)が軍法会議長官となり、検察官による捜査・公訴を指揮した。 もっとも、軍法会議は天皇の統帥大権に拠るものではなく、天皇の司法大権に拠るものと考えられたため、通常裁判所と同様に、被告人の防御権にも配慮が払われた。具体的には、弁護人依頼権の保証、重罪事件における必要的弁護制度・会議公開の原則・上訴権の保障である。 軍法会議は原則として、現役軍人・軍属及びそれに準じる者(召集中の軍人・俘虜)を対象とし、民間人は共犯である場合や軍関係のからむ特定の犯罪の場合に限られていたが、戦時及びそれに準じる場合(事変)であれば、その必要に応じて管轄されることがあった(陸軍軍法会議法第6条)。常設軍法会議として、陸軍では高等軍法会議(長官は陸軍大臣)、軍軍法会議(長官は軍司令官)、師団軍法会議(長官は師団長)があり、海軍では高等軍法会議(長官は海軍大臣)、東京軍法会議(長官は海軍大臣)、鎮守府軍法会議(長官は鎮守府司令長官)、警備府軍法会議(長官は警備府長官)、艦隊軍法会議(長官は艦隊司令長官)が置かれていた。 それ以外に戦時・事変に際して臨時に、一定の部隊や地域に設置される特設軍法会議が存在した。 高等軍法会議の場合、兵科将校より任命される判士3名と、法曹資格を取得して軍に任用された法務官(文官、1943年以降は武官たる法務将校)2名が裁判官として合議体を構成した。それ以外の常設軍法会議では、判士4名・法務官1名が定数である。少将以上を被告とする事件は、高等軍法会議の所管であった。 特設軍法会議は主に最前線などで簡易に処罰を行うために設置された物であり、軍の少尉以上の士官が3人集まればどのような場所でも即時開催可能であった。対象となる行為が敵前逃亡や抗命などの重罪である場合がほとんどであり、弁護・公開・上告は認められていなかった。 二・二六事件では、軍法会議法ではなく、緊急勅令によって設置された東京陸軍軍法会議で審判が行われたので、非公開・一審のみの裁判となった。 太平洋戦争では戦況の悪化に伴い、食糧補給が無いので食料を探しに部隊を無断で離れる兵士も多くなり、上官殺傷で軍紀の乱れが有り、軍法会議にかけず処刑された兵士も多く、変死、平病死、特攻として死に追いやられた。 日本の軍法会議は、法律知識に乏しい兵科将校たる判士が裁判官となっていたことについて、批判を受けることがある。
制度趣旨
構成
軍法会議の種類
判士制度
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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