軍楽隊
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フランス第1帝政時代の軍楽隊のイラスト(Musique militaire sous le 1er Empire)ドイツ帝国擲弾兵第1《王太子》連隊軍楽隊(1910年)(Musikkorps Rgt.“Kronprinz”, 1910)アメリカ海兵隊軍楽隊(2019年)(United States Marine Band, 2019)スウェーデン王立海軍軍楽隊(2014年)(Marinens musikkar, 2014)

軍楽隊(ぐんがくたい) とは、軍隊に属する音楽隊。吹奏楽団の形態の一つであり、主に国内外の要人の御前や国家の行事、軍隊の式典等で演奏活動を行う音楽集団である。吹奏楽の直接的なルーツを持つ。
概要

野外で演奏されることが多く、大きな音量を必要とするため歴史的に管楽器群打楽器群から成る吹奏楽の編成が採られることが多い。概ね第一次世界大戦以降は戦闘ドクトリンの進化や無線通信の普及によって、ビューグル(喇叭)とともに戦場での音楽による情報伝達任務は廃れたものの、パレード観兵式・閲兵式・観閲式)や栄誉礼などの式典や行事における演奏任務、将兵の慰安や士気昂揚のための音楽演奏(軍歌・軍楽や行進曲を主体にジャンルは多彩にわたる)では今なお現役である。なお軍隊内にジャズ・バンドロック・バンド合唱団が置かれることもある。

他方、戦時平時を問わず大衆的な音楽演奏の役割を担ったため、民間にも管打楽器編成の音楽隊が結成された。特に、アメリカでは軍の活動であっても民間の団体に演奏を委ねることが多く、またイギリスでは労働者階級に広がった金管バンド(brass band)との区別もあって、ミリタリー・バンド(military band)の語を、軍隊に属していない民間の吹奏楽団に対しても用いることがある。本項では軍に属する狭義の意味での軍楽隊、特に日本の軍楽隊について詳述する。民間の音楽隊については吹奏楽を参照。
日本軍詳細は「吹奏楽の歴史#日本吹奏楽史」を参照

日本の軍楽隊ならびに日本の吹奏楽の歴史は、明治2年9月、薩摩藩の青年30人が横浜に駐屯していたイギリス陸軍歩兵軍楽隊(楽長はジョン・ウィリアム・フェントン)について軍楽を修習したことに始まる(薩摩バンド)。1871年(明治4年)、陸海軍(日本軍)の制度が成立すると、この30人が陸軍海軍に別属させられ軍楽隊が発足した。翌1872年10月14日(明治5年9月12日)の鉄道開業式では早くも伶人とともに公の場での演奏を行っており[1]明治期には鹿鳴館での奏楽なども担当した。旧暦9月に陸軍軍楽隊は軍楽志望者を教導団にあつめ、ダクロンからフランス式軍楽を学ばせた[2]。1881年夏、陸軍軍楽隊は、横浜山手公園でダクロン指揮で公開演奏した[2]。1874年12月13日、宮内省式部寮雅楽課伶人が、海軍軍楽隊軍楽長中村祐庸を招聘し洋楽を伝習する[3]

陸軍においては兵学寮のフランス式喇叭と合同され、1873年(明治6年)、鎌倉における天覧野外演習にさいして喇叭教官としての雇教師ギュスターブ・シャルル・ダグロン(第二次フランス軍事顧問団の一員)の指揮により、明治天皇のもとで御前演奏を行った。これが軍楽隊の御前演奏の最初である。1875年(明治8年)、軍楽隊に関する条例が制定され、官等級も他の兵科部に準じて規定された。1877年(明治10年)、西南戦争では討伐軍団に属し従軍。これに先立って1873年、岡崎城下にあった徳川の旧臣の二男三男のなかから軍楽隊が召募され、その翌年からは毎年、地方から新兵が召募された。1880年(明治13年)、総員は2隊に分けられ、第一軍楽隊および第二軍楽隊がそれぞれ設けられ、第一軍楽隊が馬場先門外に、第二軍楽隊が和田倉門外にそれぞれ置かれた。

1882年1月、海軍軍楽隊志願者を一般から募集し、瀬戸口藤吉ほか14名を採用した[4]。7月、陸軍通訳官古矢弘政・一等楽手工藤貞次がフランスに留学した(パリ音楽院で学び、1888年9月帰国とともに陸軍軍楽隊教官となった)[2]

1884年(明治17年)、フランス軍楽隊長シャルル・ルルーが聘され軍楽隊は革新された。1888年(明治21年)、両隊に卒業生が加えられて3分され、ひとつは基本隊とされ陸軍教導団に、ひとつは近衛鎮台(のち近衛師団軍楽隊)に、ひとつは大阪鎮台(のち第4師団軍楽隊)にそれぞれ置かれた。なお1891年(明治24年)、陸軍教導団にあった軍楽基本隊は陸軍戸山学校に移転し、のちの陸軍戸山学校軍楽隊となる。1890年(明治23年)、ルルーが帰国し、翌1891年にドイツのフランツ・フォン・エッケルトが聘されドイツ軍楽が研究された。日清戦争には3個隊の軍楽隊が従軍した。1900年(明治33年)、義和団の乱では日本軍楽隊は北京に駐屯し、各国軍楽隊とともに国際的演奏を行っている。日露戦争にも各軍楽隊は従軍し、戦後、朝鮮および旅順に駐箚軍楽隊が設置された。1910年(明治43年)、ロンドンにおける日英博覧会には、永井建子戸山学校軍楽隊々長以下、戸山学校軍楽隊員・各師団軍楽隊員・戸山学校軍楽生徒らから選抜された35名からなる代表軍楽隊が、フランス経由でイギリスに赴き国際的演奏を行い5か月間滞在した。

1912年大正元年)11月、第3師団軍楽隊が名古屋に設置された。1918年(大正7年)のシベリア出兵にさいしては陸軍戸山学校軍楽隊、近衛師団軍楽隊、第3師団軍楽隊および第4師団軍楽隊から2隊の臨時軍楽隊が編成され従軍。しかしその一方で、1915年(大正4年)には旅順および朝鮮駐箚軍楽隊が、1922年(大正11年)には第3師団軍楽隊および翌1923年(大正12年)には近衛および第4師団軍楽隊が山梨軍縮により廃止され、戸山学校軍楽隊のみとなった。当時、戸山学校軍楽隊は定員135名、毎年10名の軍楽生徒が採用され、軍楽生徒は満16年から20年までの志願者が入校し教育を受けていた。
陸軍1913年(大正2年)、明治45年制式の軍楽部軍衣を着用した軍楽下士官ないし兵(手前左端、チューバ奏者)。桂太郎陸軍大将の葬儀における姿

陸軍では主に軍楽隊の総本山であった陸軍戸山学校で軍楽教育が行われ(軍楽生徒)、ここで組織された軍楽隊を陸軍戸山学校軍楽隊(名称は何度も改称されており、これは8個目となる)と称する。なお、1937年(昭和12年)に陸軍戸山学校軍楽隊は陸軍軍楽隊に改称されているものの、旧称である「陸軍戸山学校軍楽隊」は内外で引き続き使用されている[5]


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