この記事では、明治維新の建軍から第二次世界大戦敗戦による解体まで、大日本帝国陸軍の軍人が着用した制服について解説する。軍服一般については軍服を参照。
概要陸軍式の御服を着用した大元帥(昭和天皇、中央)と、陸軍の将官(将軍、右列)・海軍の将官(提督、左列)。大元帥および陸軍将官は昭和13年制式の冬衣を、海軍将官は昭和17年制式の軍衣を着用。1943年大正末期および昭和期の青年将校文化を取り入れた、瀟洒なスタイルの青年将校(陸軍騎兵少尉ないし中尉)。近衛騎兵連隊附の閑院宮春仁王(大正11年制式ないし昭和5年制式)昭和期の憲兵下士官と陸軍憲兵上等兵(右手前は憲兵マント姿)。立姿の下士官らは官給軍衣の襟を高く改造し、かつ将校准士官と同等の私物襟章に変えている(1935年頃、四五式・改四五式ないし昭五式)第二次大戦時にアメリカ軍が作成した帝国陸軍の軍服・階級章・徽章類(概ね昭和13年制式・九八式に準拠)のイラストマニュアル"Jap Army Uniforms" 19441943年4月5日、ドイツ陸軍将校(左)およびフィンランド陸軍将校ら(後)と写る昭和13年制式の冬衣を着用した陸軍少佐
帝国陸軍はその建軍(藩兵を解散して御親兵や鎮台兵を設置)頃から、天皇および新政府の日本軍として軍服の統一を図るようになった。当初は軍制ともどもフランス陸軍(軍服)に範をとっていたが、普仏戦争の結果から明治19年の改正(明治19年2月24日内閣達14号(下士卒)及び明治19年勅令第48号(将校))において、ドイツ陸軍(軍服)に倣うようになった。しかしながら、明治38年・45年制式においてフランス陸軍式である肩章(ショルダーストラップ)を大々的に採用するなど、以降は列強各国の軍服の影響を受け、またそれらを研究しつつ帝国陸軍は独自の服制を構築する事となる。
将校准士官と下士官兵の服制には差異があり、明治33年勅令第364号により「陸軍服制」へ統一されるまでは、「陸軍将校服制」と「陸軍下士以下服制」が別個に規定されていた(「陸軍服制」内の陸軍服制表および図において「将校、准士官服制」と「下士官兵服制」は区別される)。なお、基本的に将校准士官の被服を含む軍装品一式は自弁調達する私物であり、各々の嗜好や資金力などにより細部の作りを含めて様々な個性が見られた。軍服を「お洒落」に仕立て「お洒落」に着こなすこれら瀟洒な帝国陸軍の文化は、古くは明治初期から一貫して存在していたものの、その傾向は昭和期が特に顕著であり、大正11年制式末・昭和5年制式・昭和13年制式においては若年層の間でいわゆる「青年将校文化(大11制・昭5制 / 昭13制)」が大流行している。
将校准士官の軍服・軍装品は生地等にある程度の制式規格が定められていたものの、上述の通り基本は私物でまた様式にも自由が利くものであった。将校准士官は民間の紳士服店・軍装品店・百貨店および、偕行社などで軍服をテイラー・メイドで誂えるのが一般的であったが、第二次世界大戦中は軍人の増加やその国状により、民間や偕行社を問わずレディ・メイドの品(既成服・吊るし服)が普及している(それら既成服も多種多様であり、注文服相当の高品質な物や瀟洒で個性のある物は多い)。下士官兵の軍服・軍装品は将校准士官以上の細かな制式規格に沿って、主に陸軍被服本廠・大阪陸軍被服支廠・広島陸軍被服支廠(大支・広支は昭和初期に新設。のちの1940年代頃にはさらに各地に増設)といった被服廠において製作・検定・管理される官給品である。製作自体は官営の被服廠のみならず、民間業者(福助足袋、大塚製靴・日本製靴・千代田製靴等)に委託される事も多く、それらは納入後に各被服廠等にて検定を受けた。しかしながら、同制式の官給品でも製作時期や製作者によって作りに差異があり、また古参下士官兵には暗黙の了解として官給軍装品の私物化・改造(主に襟の張替え)、私物肩章襟章等の使用が認められていた。このように、帝国陸軍の軍服には階級を問わず、体裁の異なるものが多々存在する。
陸軍軍属に対しては上記とは別に「陸軍軍属従軍服制」が規定され、陸軍軍人の軍服に相当する従軍服が制定されていた。なお、この従軍服は製式や階級章などにおいて軍服とは異なった独自のものとなっていた。
1885年、陸軍士官学校において、フランス陸軍中尉(軍事顧問エチエン・ド・ヴィラール)と写る将校
1900年、北清事変(義和団の乱)において、8ヶ国連合軍将兵と写る下士官ないし兵。左端よりイギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍(海軍)、イギリスインド軍、ドイツ軍、フランス軍、オーストリア=ハンガリー軍(海軍)、イタリア軍、日本軍
1904年10月、沙河会戦において、イギリス陸軍将官イアン・ハミルトン(観戦武官)と写る、陸軍大将(第1軍司令官黒木為)以下将校
1904年10月、沙河会戦後に各国陸軍の将校(観戦武官)と写る陸軍大将(第1軍司令官黒木為驕j以下将校
1905年1月、旅順攻囲戦水師営の会見において、ロシア帝国陸軍中将(旅順要塞司令官アナトーリィ・ステッセリ) らと写る、陸軍大将(第3軍司令官乃木希典)以下日露陸軍の将校
1905年8月、ポーツマス講和会議における日露米陸軍の将校
1918年ないし19年、シベリア出兵における陸軍大将(浦塩派遣軍司令官大谷喜久蔵)以下、日米英仏等各連合国陸軍の将校