大元帥(海軍大元帥
)陸軍上級大佐
海軍上級大佐
空軍上級大佐
大佐
陸軍上級大尉
海軍上級大尉
空軍上級大尉
大尉
上級曹長(上級上等兵曹)
曹長(上等兵曹)
軍曹(一等兵曹)
伍長(二等兵曹)
兵
兵長(水兵長)
上等兵(上等水兵)
一等兵(一等水兵)
二等兵(二等水兵)
括弧内は海軍における呼称例
軍曹(ぐんそう)は、 軍隊の階級はその軍・時代によっていろいろな名称が存在するが、「卒伍のうち優秀なものを登用し兵のまとめ役とする」階級が存在し、序列として尉官の下になる点はおおむね同じである。 軍曹以上を下士官として扱うか、あるいはその下の階級以上を下士官として扱うかについては国や時代により差があるが、下士官の分類として重要な位置づけとなっている[注釈 4] [注釈 5]。 軍曹は分隊長を務めることがある。その場合、率いる兵員は10名から20名程度のことが多い。 軍曹は、兵の教練役や部隊の士気と秩序の維持を担うため、畏敬と揶揄を込めて「鬼」「鬼軍曹」などとも呼ばれる。 また新米将校の補佐役としての役割も大きく、戦術レベルにおいて古参軍曹の見解は新米将校の判断より重んじられる場合がある。 版籍奉還の後、1871年2月11日(明治3年12月22日)に各藩の常備兵編制法を定めたときの歩兵大隊や砲兵隊の中の下等士官の最下級である[4] [5] [注釈 6] [注釈 7] [注釈 8]。曹長・権曹長と軍曹を総称して下等士官といいその下に伍長を置き、下等士官と伍長の四職は少佐が選抜して藩庁へ届出させ、下等士官の採用・離職・降級・昇級は毎年2回まとめて兵部省へ届出させた[4] [5]。 1871年4月2日(明治4年2月13日)に御親兵を編制して兵部省に管轄させることになり[17]、また同年6月10日(同年4月23日)に東山西海両道に鎮台を置いて兵部省の管轄に属すことになり[18]、明治4年5月には兵部省によって軍曹を命じる例や、会計書記軍曹・倉庫掛軍曹・喇叭軍曹・給養軍曹・射的軍曹を命じる例が見られる[注釈 9]。 陸軍徽章で定めた軍服や階級章は、紐釦並びに帽前面章は下等士官と伍長以下で区別しており、下等士官の釦は真鍮桜花、前面章は真鍮日章であるのに対して、兵卒・伍長共に釦は真鍮隊号を附け、前面章は塗色日章とした[27]。下等士官と兵卒は軍帽の周囲黄線、上衣の袖黄線でその階級を区別しており、軍曹は軍帽・袖章とも大1条である[28]。親兵についても軍曹を下等士官としており、その紐釦・帽前面章、軍帽・袖章は同様の区別をしている[29]。また、兵部省陸軍下等士官給俸定則でも、曹長以下軍曹以上については衣服は官給、食料は自弁とすることができるのに対し、伍長以下二等兵卒以上は衣服食料とも官給とした[30]。 廃藩置県の後、1871年(明治4年8月)の陸軍においても下等士官の最下級であった[注釈 10]。曹長・権曹長の下、伍長の上にあり、官等は15等のうちの十三等である[32] [注釈 11]。官等表に掲載する大尉以下軍曹までを判任としたのに対し、官等表に掲載しない伍長以下兵卒までを等外として扱った[35]。明治5年1月の官等表改正後も同年2月の陸軍省設置後も軍曹以上は判任で伍長以下は等外である[36] [37] [38]。 1872年1月13日(明治4年12月4日)に兵部省の指令で定めた鎮台分営士官心得勤辞令書式によると、軍曹の仮任を命ずるときはその達書は隊長名によって陸軍軍曹の心得を以て当分相勤める可き事とし、軍曹の正員を補するのは帥の決を取って命ずるので鎮台本営によって陸軍軍曹を申し付ける事としており、少尉以上の任官とは異なる取り扱いをしている[39] [注釈 12]。 陸軍徽章を増補改定しているが下等士官の釦は真鍮桜花、前面章は真鍮日章であるのに対して、兵卒・伍長共に釦は真鍮隊号を附け、前面章は塗色日章とし、軍曹は軍帽・袖章とも大1条で変わりない[41]。また、兵部省陸軍・士官兵卒・給俸諸定則でも、下等士官については食料として毎月金5両を賜るのに対し、伍長以下は現賄を賜るとした[42]。 1873年(明治6年)3月19日の陸軍武官俸給表では、官名として軍曹、分課として砲兵・騎兵・歩兵、等級として一等・二等、所属として近衛と鎮台があり、これらの組み合わせで俸給額に違いがあった、また列外増給として書翰掛・給養・会計・倉庫掛・火工下長軍曹には増給の規定がある[43]。 1873年(明治6年)5月以前に用いられた各種名義の軍人について、当時の官制に於いて規定した明文がないものの、例えば心得、准官のような名義の者であっても当時は戦時に際して上司の命令を以て実際に軍隊・官衙等に奉職しその任務を奉じたことから、明治25年5月に陸軍大臣の請議による閣議に於いてこれらを軍人と認定しており[44] [45]、これらのうち軍曹に相当するものには次のようなものがある[46] [47]。 1873年(明治6年)5月8日の陸海軍武官官等表改正で軍曹の官等を15等のうちの十三等から十二等に繰上げた[33] [注釈 13]。曹長の下、伍長の上であり[33]、このとき下士の最下級は軍曹から伍長に代わる[注釈 11]。
平安時代の律令制における鎮守府の三等官。将軍、軍監の下に属し、定員2名であった。官位相当は従八位上。
戊辰戦争のときに置いた官職で、1868年3月31日(慶応4年(明治元年) 3月8日)から勤王の士である浪人を軍曹として俸禄を給した[1]、戊辰戦争が終わると1870年4月30日(明治3年3月30日)に軍曹を廃止して士族に編入して東京府貫属とした[2] [注釈 1]。
1871年2月11日(明治3年12月22日)に各藩の常備兵編制法を定めたときの歩兵大隊や砲兵隊の中の下等士官の最下級である[4] [5]。曹長・権曹長と軍曹を総称して下等士官といい、権曹長の下、伍長の上である[4] [5]。
1871年(明治4年8月)から募集編隊を始めた海兵隊における下士の階級である[6]。曹長・権曹長の下、伍長の上である。1876年(明治9年)8月に海兵を解隊し[7]、配置転換が完了したのち1878年(明治11年)2月19日に海軍文武官官等表から海兵部の部目を廃止した[8]。
大日本帝国陸軍の下士官の階級の一つ。曹長の下で、伍長の上に位置する。陸海空各自衛隊では、2等陸曹、2等海曹(旧海軍の呼称では一等兵曹)、2等空曹(2曹)に相当。
近代陸軍(陸軍航空隊を含む)の中級から下級程度の下士官の階級の訳語。アメリカ陸軍のsergeant など[注釈 2]。
主に5.・6.になぞらえて、他人にはもちろん、自分にも厳しく接する叩き上げ型の人物を指した呼称。「鬼軍曹」と呼ぶこともある。詳細は「#軍曹の異名を持つ人物」を参照
近代陸軍における軍曹
概要
日本陸軍
1871年(明治3年12月)の軍曹
1871年(明治4年8月)の軍曹
軍曹心得[46] [39] [48]
明治3・4・5年の頃にあってその本官の職を取る。本官とは、軍曹は半小隊長の職を取る[47]。
七等下士並び試補[46]
明治元年以降、明治4年頃までのものであって七等下士は軍曹相当であってその職を取り、試補はこれに等しいもの[47]。
1873年(明治6年)5月の軍曹
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