軍師
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軍師(ぐんし)は、中にて軍の司令官戦略指揮を助ける者のことである。

このような職務を務める者は、東アジアでは古代から軍中にみられた。対して、ヨーロッパでは近代的な軍制にて参謀制度が確立するまで、制度としては存在しなかった。
留意すべき点.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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軍師は、西欧の軍制度における参謀などと異なり、軍司令官的な存在とも対等、または、やや上位の関係にあり、賓客(要人)、顧問的な立場だった。時として君主の師匠扱いもされ、君主より上位の存在の場合すらあった。

しかしこうした軍師像は、師匠は弟子よりも上位とする儒教的な考え方、実際に軍司令官的存在に対し、上位の立場で軍事にのみ助言する軍師という存在は『三国志演義』・『水滸伝』、あるいは日本の戦国時代を基に作られた軍記物などの創作フィクション)の世界によって創作された部分が大きい。軍師の代表例とも言える諸葛亮(諸葛孔明)であっても政治・軍事の枠を超えてのほとんどの分野に関わった人物だった。つまり軍政両面に権限を持った人物が、軍事に専従する人物よりも上位にあった、という方が実情に近い。
中国官制における軍師の沿革

[1]
両漢交替期―軍師の起源
官制上の軍師は、両漢交替期の群雄が名士を招聘したことに端を発する。劉秀配下のケ禹における韓?[2]隗囂における方望[3]が当時の軍師の例である。諸軍閥は軍師を文字通り「師」として、帷幄で謀略をめぐらす任務を託した。群雄と軍師との関係は君臣の間柄ではなく、軍師は進退去就の自由を有する賓客として遇された[4]。両漢交替期の軍師は戦時体制下の臨時職だったため、後漢の中国統一ののちに廃止された。
後漢末期―名士の取り込み
後漢末期の群雄蜂起に際して軍師が再び現れた。袁紹における盧植[5]劉表における蔡瑁[6]が例として挙げられる。盧植は黄巾討伐で功を挙げた当代の名儒として、蔡瑁は荊州の名士として知られていた。当時の名士とは高い名声を持った知識人(主に儒者)のことである[7]。名士は学識・知恵を期待されて、あるいは群雄が覇権を正当化する象徴として、あるいは名士層を抱き込む目的で軍師として迎えられたとみられる。後漢の主な官僚登用法である郷挙里選は地方官や地方の有力者がその地方の優秀な人物を推薦する制度であり、その地方での名声が重要視されたので、名士は郷挙里選で推挙されやすかった。郷挙里選の中で特に重視された孝廉では儒教の教養が重視された。孫権の軍師になった張昭も孝廉に推挙されているが、徐州など北方で名声を博した名士であり、孫策は張昭を師友の礼をもって遇している[8]劉備政権で軍師中郎将・軍師将軍・丞相を務めた諸葛亮は若くして司馬徽?徳公に「臥龍」と評されて期待された荊州の名士だった[9]


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