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やノートページでの議論にご協力ください。軍事貴族(ぐんじきぞく)は、日本の平安時代初期頃より成立していった軍事専門の貴族、公家・堂上家(殿上人)・地下家(地下人)出身の官人のことをいう。武家貴族とも呼ばれ、成立期の武家(武士)の母体となった。為憲流藤原南家、利仁流と秀郷流と勧修寺流上杉氏の藤原北家、国香流桓武平氏、清和源氏、広元流大江氏、嵯峨源氏の渡辺氏と瓜生氏と赤田氏、宇多源氏の佐々木氏、多々良姓大内氏、日下部姓[1]朝倉氏、大蔵姓諸氏、中原姓諸氏、惟宗姓諸氏などが代表的な軍事貴族である。 軍事貴族の概念は、戸田芳実による軍制史
概念の提起
この概念が登場した背景として、1970年代以降、王朝国家論を巡る議論の中で、在地の農民層から武士が生まれて公家の荘園支配を打倒していったとする、それまでの解釈への批判が強まったことが挙げられている。
こうした古代・中世史研究の深まりとともに、農民ではなく公家に武家の起源を求める見方が生まれ、両者を繋ぐ概念として提起されたのが、軍事貴族である[2]。 律令国家が建設される以前の古墳時代・飛鳥時代においても、軍事を主務とする豪族が存在した。当時、ヤマト政権内において特定の職務を担当する同族集団、すなわちウヂが存在しており、その中で軍事を担当するウヂに物部氏や大伴氏、紀氏と平群氏などがあった。 しかし、7世紀後期に形成していった律令制は、官僚制を原則としており、ある氏族が特定の官職を世襲することを否定した。律令に基づいて各地に軍団が設置されると、物部・大伴両氏に代わって軍団が軍事を担うこととなった。 その後、軍団は8世紀末から9世紀にかけて廃止され、軍事動員を必要とするときは、国衙から太政官へ上申し、太政官から「発兵勅符」を得た上で、国衙が国内の各戸から兵を徴発したり健児を動員するという方式で対応していた。常置の国家正規軍は存在しておらず、必要のあるときのみ、臨時の正規軍が編成される仕組みとなっていた。 9世紀末頃になると、百姓らの偽籍・浮浪・逃亡が顕著となり、軍事動員の対象となるべき百姓を各戸ごとに把握することが困難となった。さらに、東国において群盗の横行が常態化するようになっていた。 寛平・延喜年間(9世紀末期から10世紀初期)になると、坂東において、中央へ進納する官物を強奪するといった「群盗蜂起」が頻発した(?馬の党・寛平・延喜東国の乱)。朝廷はこれに対処するため、受領(現地国司の最高位者)に広範な軍事上の裁量権を認める制度改革を行った。具体的には、単に兵動員を許可する「発兵勅符」に代わって群盗を積極的に鎮圧しようとする「追捕官符」を発出するとともに、国単位で押領使・追捕使を任命して、国内の武勇者を国衙・押領使・追捕使の指揮下に入ることを義務づけたのである。この軍制改革は、地方に権限を移譲するという意味で、まさに当時その緒についていた王朝国家体制への転換改革と軌を一にするものだった。 この時期に群盗追討で名を馳せたのが、藤原為憲、藤原利仁、藤原秀郷、平高望・国香父子、源経基ら臣籍降下や下向した下級貴族(官人)である。彼らがこうした軍事力を発揮出来た背景には、彼らの父祖の世代が受領に任ぜられた際、狩猟文化を背景に持つ俘囚の武芸を学んでおり、それを基礎とした新式の武芸を編み出していたとする説(下向井龍彦)が唱えられている。彼らは国司や押領使として勲功を挙げるとともに、赴任した地方に土着して国衙から公田経営を公認されるなど、自らの軍事力を維持出来るだけの経済基盤を築いた。しかし朝廷の彼らに対する処遇は必ずしも彼らが期待したほどではなく、彼らの間には次第に不満が蓄積していった。940年(天慶3年)前後に発生した承平天慶の乱は、このような不満の実体化であった。この乱の叛乱側、追討側のいずれも、延喜期に勲功を挙げた者たちの子孫であった。 承平天慶の乱の鎮圧・追討に勲功のあった者、すなわち承平天慶勲功者の大半は、公家の血統に属するとはいっても、極めて低い官位にある中下級の官人であった。しかし朝廷はこの時、彼らの間の不満が乱の原因になったとの認識のもと、彼らを五位・六位といった受領級の中・下流公家に昇進させた。この結果、10世紀後半の公家社会において、承平天慶の乱の勲功者とその子孫たちは軍事に特化した家系、すなわち兵の家(つわもののいえ)として認知されるようになった。 軍事貴族ないし武家の母体となったのは、こうした兵の家の者たちであったというのが、現在最も有力な学説である。ただし、彼らの子孫すべてが軍事貴族・武士へ成長した訳ではない。当時はまだ家業の継承・固定化が成立しておらず、兵の家としての認知はいまだ流動的でもあった。 11世紀に入ると、ある家系が特定の官職を世襲する「家業の継承」または官司請負制が公家社会内で次第に確立されていった。こうした流れの中で、兵の家の中から軍事を専門として従事する家系が固定化していった。彼らの多くは六位どまりの侍身分の技能官人であったが、上層部の者は諸大夫身分の一角を占めて四位・五位階級まで昇進して、受領級の官職に任命されるようになった。これが軍事貴族の成立である[3]。 軍事貴族の中でも、高位の四位に叙されたのは、為憲流藤原南家、利仁流と秀郷流藤原北家、清和源氏、国香流桓武平氏に限られていた。うち正四位まで昇ったのは、清和源氏の6名と桓武平氏の2名のみである。当初、源頼光や源頼信をはじめとして清和源氏が相次いで正四位に叙され、清和源氏が武家の棟梁として認識されていたが、源義家の子の源義親の代に失脚すると、代わって平忠盛が正四位に昇った。
前史
軍事貴族の成立
軍事貴族の態様
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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