軍事境界線_(朝鮮半島)
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朝鮮半島軍事境界線

各種表記
ハングル:??? ??? ??(南)
チョソングル:???? ??? ??(北)
漢字:韓半島非武裝地帶(南)
朝鮮半島非武裝地帶(北)
発音:ハンバンドビムジャンチデ(南)
チョソンバンドビムジャンチデ(北)
日本語読み:かんはんとうひぶそうちたい(南)
ちょうせんはんとうひぶそうちたい(北)
英語表記:Korean Demilitarized Zone (DMZ)
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軍事境界線(ぐんじきょうかいせん、朝鮮語: ?????/軍事分界線、英語: Korean Demilitarized Zone〈略称:DMZ〉)とは、朝鮮半島陸上において大韓民国(以下、韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)との実効支配地域を分割する地帯のことである。あくまで実効支配地域の「境界線」であり、「国境線」ではない。また、韓国においては北緯38度線付近にあることから38線(???:サンパルソン)と呼ばれることが多い(厳密な北緯38度線とは一致しない)。

朝鮮戦争の休戦ラインであり、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定により発効した。軍事境界線の周囲には南北に非武装地帯が設定され、加えて韓国側では民間人出入統制区域も設定されているため、一部の例外を除き一般人が軍事境界線付近へ近づくことはできない。この境界線は海上にも延伸しており北方限界線(NLL)と呼ばれるが、韓国側と北朝鮮側で主張するラインが大きく異なり、紛争が度々起きている。
歴史

第二次世界大戦太平洋戦争・日本名大東亜戦争に敗れた大日本帝國(現・日本国)は、1910年(明治43年)から植民地支配していた朝鮮半島を失った。詳細は「光復節 (韓国)#韓国における「光復」の概念と光復節の制定」および「日本の降伏#軍の降伏」を参照

これに伴い、朝鮮半島は北緯38度線に沿って南北にアメリカソ連分割占領が行われた。1948年に南北が別々の独立国家となった後も、当初境界線は分割占領線である北緯38度線ちょうどに設定されていた。詳細は「連合軍軍政期 (朝鮮史)#第二次世界大戦の終結と戦後処理」および「朝鮮半島分断#分割(1945年9月2日以降)」を参照

1950年6月に始まった朝鮮戦争は約3年を経て膠着状態となり、1953年7月27日、国連軍代表でアメリカ司令官のウィリアム・ハリソンや朝鮮人民軍代表の南日らが朝鮮戦争休戦協定に署名し、休戦の施行時の現状を境界として画定させることになった[1]。その結果、西海岸では北朝鮮が38度線の南に食い込み、東海岸では韓国が北に食い込む形の線となった。朝鮮戦争以前は大半の地域が南側であった開城と、黄海道の海岸線付近は北側となった。一方、江原道中部(束草市など)は北側から南側に属することとなった。詳細は「38度線#38度線の成立と朝鮮半島分断」および「北方限界線#概要」を参照
境界線付近の状況
非武装地帯(DMZ)

軍事境界線

面積903平方キロメートル(総面積)
北朝鮮側が478平方キロメートル
韓国側が425平方キロメートル km2
最大都市自由の村
所属大陸・島朝鮮半島
所属国・地域 大韓民国
 朝鮮民主主義人民共和国
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休戦協定により南北双方の勢力は軍事境界線から2キロメートル後退することになり、計4キロメートルの非武装地帯(DMZ)が設定され、地域内には軍隊の駐屯や武器の配置、軍事施設の設置をしないことになった[1][2]。非武装地帯の総面積は903平方キロメートルであり、内訳は北朝鮮側が478平方キロメートル、韓国側が425平方キロメートルである[3]。非武装地帯には毎年約650万人の観光客が訪れている[4]

非武装中立地帯と民間人出入統制区域(韓国側のみ)を隔てている「南方限界線」および「北方限界線」(海上の北方限界線とは別)は、南北双方が休戦協定違反を理由に軍事境界線側に押し出したため、現在ではDMZの幅が300メートルまで狭まっている箇所もあり、幅が4キロメートルのままの所は珍しい状況にある。

非武装地帯内は極僅かの地域を除いて、一面に地雷が敷設されているため通行は実質不可能である。DMZに敷設されている地雷は、北朝鮮側が約80万個、韓国側が約127万個で合計207万個程度と推測されている[5]。そのため半世紀以上にわたって人の寄り付かない場所となったことから、自然が豊富であり絶滅危惧種などが生息する生物の楽園となっている[4]

軍事境界線は国連軍と北朝鮮・中国間での国際合意である朝鮮半島軍事停戦合意に基づくが、軍事境界線と双方の通常全般前哨(GOP:General Out Post)の間には韓国軍朝鮮人民軍の監視所(GP:Guard Posts)が設置されており事実上の当事者として実際的な役割を果たしている[1]。軍事境界線から南側に2キロメートル下がった線は南方限界線と呼ばれ、鉄柵が張られており、ここを韓国軍の兵士が巡回する様子がメディアなどで取り上げられる[2]。両軍の間で銃撃戦が発生することも数多く、1960年代から1980年代にかけては、ほぼ毎年死傷者を出してきた。休戦協定の第1条第10項の規定によって「民政と救済のための警備要員」を南北双方が1,000名ずつまで、非武装中立地帯内に立ち入れることになっている。このため両軍とも監視哨所を建てたり、潜伏斥候を入れたりしている[6]

非武装地帯そのものは非武装の緩衝地帯で警備兵も拳銃や自動小銃のみ携行できるにすぎないが、非武装地帯を挟んで対峙する地域には非常に大規模な軍事力が配備されており、百万人以上の兵士、約2万台の装甲車、戦略拠点などが散在している[1][2]

2020年6月16日、韓国にいる脱北者による北朝鮮政権批判のビラを飛ばしたことに対する報復行動として、朝鮮人民軍総参謀部はDMZへの軍隊の再進出に向けた手続きを進めると警告した[7]
共同警備区域(JSA)共同警備区域内の軍事境界線 (MDL)北朝鮮側から見た写真。向かい合って立っている2人の兵士の間にあるコンクリートの帯が軍事境界線。奥の建物は韓国側の「自由の家」板門店を挟んで北朝鮮側にある宣伝村「機井洞」(「平和の村」)にある高さ160メートル国旗掲揚塔。韓国側の宣伝村「台城洞」(「自由の村」)との間で、かつて国旗掲揚塔の高さの競争が起こった。

南北が実務協議を行う場所は、軍事境界線上にある共同警備区域 (JSA: Joint Security Area) 内、板門店にある軍事停戦委員会本会議場である(詳細は当該項目を参照)。共同警備区域は、軍事境界線を挟んだ非武装中立地帯を例外的に南北が共同で警備する区域として制定されている。そのため軍事境界線の真上に、建物が建てられている唯一の場所である。

韓国政府の施策である安保観光は板門店では1960年代から行われていたが、1964年には韓国人観光客が北朝鮮に亡命する事件が発生している[2]。板門店観光は、外国人の場合は旅行社等を通じて申請すればその日のうちに観光することも可能であるが、自国民の観光の場合は長期にわたる申請や30人以上での団体による申請など厳しい条件が付けられている[2]

警備面では1976年にこの区域で軍事衝突事件(ポプラ事件)が発生したため、以降は共同警備区域内においても軍事境界線の厳格化が行われた。


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