軍事史
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紀元前333年イッソスの戦い

軍事史(ぐんじし、英語:military history、history of warfare)とは、軍事に関する歴史の総称である。
概説

軍事史は軍事に関する歴史を歴史学的に取り扱う学問であり、歴史学的な手法に基づいてその史実を明らかにする。その領域は戦争史、作戦・戦闘史、軍事技術史、戦略史、戦術史、軍制史、地域史など様々である。軍事史の意義は経験科学である軍事学にとって非常に重大なものであり、現代の様々な安全保障政策軍事戦略戦術戦闘技術、軍事技術や軍事制度などには全て歴史的な背景がある。

歴史の見方は歴史家により様々であるが、軍事学において謙虚な態度で歴史を学ぶことは一般的に有益な教訓や知識、戦術や国際政治などを習得する絶好の学習法であり、将来への指針を探る手がかりとされており、盛んに研究されている。

歴史上、アレクサンドロス3世(大王)、フリードリヒ大王ナポレオンベイジル・リデル=ハートレーニン毛沢東など数多くの政治家や軍人などが歴史を真摯に学んでいることからもこのことは分かる。

また軍事史は合理的な軍事理論だけでは説明できない非合理的な戦場における肉体的または精神的な苦痛と混乱などの領域を具体的な事例によって浮き彫りにし、クラウゼヴィッツが「理論は経験を保証し、経験は理論を保証する」と述べているように、研究内容の具体性を補完することができる。また戦史の事実関係を明らかにすることにより、より的確な戦訓を抽出することもできるようになる。
戦争史概要

戦争と人間の関係は非常に多様であるが、ここでは個別的な戦争や戦闘ではなく世界軍事史の観点から関係と発達を概説していく。
先史時代

戦争の起源がいつであるかは考古学者や人類学者の間でも論争がある。が突き刺さった痕跡のあるネアンデルタール人の骨が発見されているが、戦闘行為によるものか事故によるものかはわからない。地球上に現存する狩猟採集社会には、ブッシュマンのように戦闘行為を行わない部族も存在するが、戦闘的な部族も存在する。

新石器時代に入って農耕社会が成立すると、農産物を狙って略奪行為を行う者も現れたと考えられ、農耕社会の側もこれに対抗して武装し、軍隊の原型と呼べる組織が出現したと推測される。当時の武器は旧石器時代から狩猟用具として使用されていた弓矢で、この時代の遺跡ではよく見られる出土品である。

戦闘行為の存在を示す最古の遺跡は、紀元前5000年以前のものと考えられている、エジプトスーダン国境近くに位置する Cemetery 117 である。この遺跡ではの突き刺さった多数の遺体が発掘されている。最古の城郭と言われるのは紀元前8000年頃に作られたエリコの遺跡にみられる壁である。ただしこの壁が、異民族の襲撃に対抗するためのものか、洪水などに備えたものかは定かではない。シリアイラク国境にある最古級の都市遺跡であるハモウカル遺跡では、紀元前4千年紀半ばに攻城戦で攻め滅ぼされた跡が発見され、多数の乾燥させた粘土製の弾丸を打ち込んで都市を陥落させたとみられている。
古代古代ローマの重装歩兵(再現)

青銅器時代に入ると、金属加工技術の発達により刀剣が作られるようになった。鉄器時代には鉄の刀剣が作られ、やがて鉄を高温の炉で精錬した鋼が用いられるようになった。

古代の農業技術では多くの人口を扶養できる土地は限られていたうえに農業生産は安定しなかったので、農業経済に依存する人々は生存をかけて共同体ごとに結集し、豊かな耕地や収穫物、水利権などを奪い合った。古代の農耕社会を基盤とする都市国家や専制帝国軍隊の中核となったのは、しばしば自由身分の経済力ある農業経営者が、自弁ので身を固め、を装備した重装歩兵である。農耕社会ではは主に戦車チャリオット)を牽引するために利用され、騎兵はしばしば同盟関係にあった遊牧民からの援軍を仰いだ。考古学の見地ではヒッタイトやエジプトで見られる戦車(チャリオット)による戦闘がもっとも古く、おそらくこれを駆逐する形で騎馬部隊による戦闘がこれに代わり、ついで重装歩兵による軍制がこれに置き換わっている[1]。古代の軍制については文献がとぼしく、考古学史料などからの推測による点が多い。この時代における兵器・武装の技術進歩と軍隊運用の優劣については古代軍事史における大きな謎の一つであり現代でも十分に解明されたとはいいがたい。

組織化された軍隊を歴史上最初に保有したことが記録に残るのはシュメール人であった。後にエジプト中国でも同様の軍隊が出現したことが確認される。紀元前7世紀頃に古代ギリシアが編み出したファランクスは、重装歩兵が数列の深さの横隊に並び、長槍の穂先を並べて突進するもので、古典古代地中海世界からオリエントにかけての地域において、大きな戦力とされた。やがてファランクスは横長の長方形の陣形から片側だけを厚くする斜線陣など特殊な運用も生み出し、あるいは弱点である側面に騎兵を置くなどして強化され、ペルシア戦争(紀元前492年 - 紀元前449年)においても活躍した。アレクサンドロス大王の東征ではマケドニア軍のみならず、アケメネス朝ペルシア側にも多数のギリシア人傭兵が参加しておりこれを用いた。その後も地中海世界からオリエントにかけて各地で多用されたが、ファランクスには小回りが利かないという弱点もあった。古代ローマレギオン戦術はより柔軟で、投石機投槍で敵の隊形を崩し、グラディウスを手にして散開して戦った。ローマのレギオンは、マケドニア王国のファランクスをキュノスケファライの戦い(紀元前197年)で破り、古代世界の覇者となった。

また、文字の出現によって軍事上の事跡が記録されるようになった。初めのうちこれはイリアスオデュッセイアのような英雄物語であったが、後には戦争を客観的な記録として残す軍事史家や、戦争に勝つための方法を研究する軍事学者が現れた。例えば現代でも有名な古代の軍事学者に孫子がいる。彼は戦争と政治の関係、戦術、諜報などに関する優れた著作を残した。
中世銀のアングリア騎士像

古代において、農耕社会の国家において騎兵は補助的な役割であったが、の品種改良が進み、をはじめとする馬具が発明されたことで、遊牧民出身の騎兵でなくともそれなりの戦力を確保できるようになり、また機動力と突撃力が増大した。馬の生産に携わり、その扱いにも長けた遊牧民の騎兵部隊は、古くから農耕社会の鈍重な歩兵部隊を翻弄したが、そうした戦力をある程度農耕社会の軍隊も保持できるようになった。そうすると逆に、鐙などの新技術は遊牧民の世界にも逆輸入され、遊牧騎兵の戦闘技術をさらに向上させた。


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