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プリミティブな(原型的、素朴な)車輪古い馬車の車輪。鉄道車両の車輪(輪軸)自動車の車輪
車輪(しゃりん、英: wheel)とは、車の輪[1]。乗り物類の下にある円形の物体で、軸のまわりを回転し、地面上を容易に移動することを可能にする目的のもの[2]。 小さな力で車、乗り物類を移動させるために用いられる。 車輪は最古の最重要な発明とされており、重量物を乗せて運ぶ橇と、その下に敷くころから発展したと考えられている。やがて橇の下にころが固定され、さらに車軸と回転部が分離して現在の形となった[3]。 車輪が無いと、1. 物を持ち上げつつ移動させるか、2. あるいは物を地面・床面に接触した状態で押したり引いたりしなければならない。1の場合、持ち上げる(持ち上げ続ける)のに大きな力を要する。2.の場合、すべり摩擦よりも大きな力で押したり引いたりしなければならなくなる。 一方、車輪にはたらく摩擦は「転がり摩擦」で、これはすべり摩擦よりも遥かに小さく、遥かに小さな力で押す(引く)だけで移動させることができる。 たとえば、普通自動車(おおむね1トン超)でも、車輪が付いていてブレーキさえ解除していれば、男性が1人で押しても動き出すほどに転がり抵抗は小さい。もしも車輪がついていなかったら、男性1人では1トンのものは持ち上げることができず移動させられない。また通常の地面に車輪無しの1トンの鉄の箱が接触した状態では、1人の男性の力では押したり引いたりして移動させることは不可能である。 また、円盤状の板材の車輪に車軸を通して回転可能にした構造は、人類の発明の中でも偉大なものの一つであるといわれる。 一般的に言う「車輪」「ホイール」「ウィール」は接地しているタイヤ(ゴムや軟質の鉄などで出来ている)やチューブまで回転部分全てを指すが、分野や状況によっては区分される場合がある。自動車の分野では硬質の部分だけでも「wheel ホイール」と言う一方で、車輪の空転を示す用語として「ホイールスピン」は、接地しているタイヤを含みロードホイール全体を含む用語である。また逆に、ロードホイール全体を「タイヤ」という場合もある(テンパータイヤ、小説空飛ぶタイヤなど)。 Wheelのカタカナ表記は業界によって異なる、自動車やオートバイなどでは「ホイール」と呼ばれ、スケートボードやローラースケートでは「ウィール」と記述される。アメリカのミニカーのHotWheels(ミニカーの商標)は日本での代理店により揺らぎが有り、『ホットホイール』や『ホットウィール』と呼ばれている。 なおピラミッドの石材は、丸い材木(ころ。軸の無い丸い木材)を下に敷いて運搬したとされているが、ころのほうの起源は新石器時代に遡ると考えられている[4]。 車輪の起源は、古代メソポタミアのシュメール人にあり[5]、時期としては(一説では)紀元前3500年ころとされる[5]。シュメールの車輪は、木製の円板に軸を挿したものだった[5]。発明の時期に関しては、メソポタミア・ウバイド期の遺跡から轆轤から発展した車輪が出土していたり[6]、紀元前3100年頃のスロベニア遺跡でも車輪が出土しているなど、いくつかの説が存在する[6]。Bronocice pot
概要
歴史
起源と伝播
なおポーランドの、個人のウェブページでは『「車輪のある乗り物」(ここでは四輪で軸が2つあるもの)と「思われる」最古の絵[要検証 – ノート]は、ポーランド南部で出土した紀元前3500年ごろのものと「思われる」 Bronocice pot
に描かれたものだ』と主張された[7]。Gwynne Dyerの著書「War」の新版(2004年)によると、車輪は紀元前4千年紀にはヨーロッパや西南アジアに広まり、紀元前3千年紀にはインダス文明にまで到達した、といい、中国では紀元前1200年ごろには車輪を使った戦車が存在していたことがわかっている、という[8]。一方、Barbieri-Low (2000) によれば、紀元前2000年ごろには中国に車輪つきの乗り物があったという。
ヌビアの古代遺跡では轆轤や水車が使われていた[9][10]。ヌビアの水車は水汲み水車であり、牛を使って回していたと見られている[11]。またヌビアではエジプトから馬に引かせる戦車も輸入していたことがわかっている[12]。車輪の歴史
オルメカや他の西半球文化では、インカ文明まで含めて車輪を発明しなかったが、紀元前1500年ごろの子供用の玩具と思われる岩石製の車輪状の物体が出土しており、車輪の発明に近づいていたと見られている[13]。これはマヤ文明においても同じで、車輪付きの動物土偶が出土したように車輪そのものは知られていたが、それが実用化されることはなかった[14]。新大陸において車輪が実用化されなかったのは輓獣となる家畜の不在が原因のひとつであると考えられている[15]。
車輪付きの乗り物は家畜に引かせて初めて威力を発揮する。メソポタミアにおける荷車の出現はロバの家畜化とほぼ同時期である[16]。やがて紀元前24世紀に入ると、ドン川やヴォルガ川流域でロバに代わり馬に荷車を引かせはじめるようになった[17]。
車輪が広く使われるようになるには、平坦な道路が必要だった[18]。でこぼこ道では、人間が荷物を背負って運ぶほうがたやすい。そのため、平坦な道路がない未開発地域では、20世紀に入るまで車輪を輸送手段に使うことはなかった。日本では平安時代に牛車が使用されていたが、平安京のような平地の都市部のみの普及だった。地方では牛馬の背に荷物を載せて運搬する駄賃馬稼が一般的であったが、江戸時代に入ると人力による大八車やベカ車も使用されるようになった[19]。馬車や人力車の普及は道路網が整備された明治以降だった。シュメール時代のオナガーに引かせた戦車の絵(紀元前2500年ごろ)@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}
ブロンズ製のシュメール式戦車。