車いすテニス
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車いすテニス

車いすテニス(英語: wheelchair tennis)は、車いすに乗って行うテニス障碍者スポーツの1つ。

2バウンドでの返球が認められている以外、ルールはテニスと変わらない。そのため、障がい者は車いすを用いないプレイヤーとともに競技することが可能である。テニスの技術ばかりではなく、車いすを素早く正確にコントロールするチェアワーク(車いすによるフットワーク)が勝敗の鍵となる。パラリンピックでは1988年のソウル大会で公開競技となり、1992年のバルセロナ大会より正式競技として行われている。
競技

車いすテニスには以下の4つのクラスがある。

男子

女子

クァード

ジュニア

クァードは四肢麻痺(quadriplegia)の略で重度の障害をもつ選手が、ジュニアは18歳未満の選手が出場するクラスである。男子、女子、クァード、ジュニアの4つのクラスにはそれぞれシングルスとダブルスがある。クァードには性別による区別がないため、ダブルスの試合で男女のペアが出場できる。また、障害者が健常者と組むダブルスをニューミックス(ダブルス)と呼ぶ。

車いすテニスではボールを相手コートに打ち返すまでに2度のバウンドまで認められている。2度目のバウンドはコート外に出てもよい。健常者と対戦もしくは組んで競技する場合は、車いすを用いる障害者のみにこの2バウンドルールが適用される[1]
用具・設備

ラケットテニスボールなどの用具はテニスと変わらない。コートのサイズも同じである[2]

素早く向きを変えてボールを打ち返す位置につくことができるように、軽量で、2つの左右の車輪の上部が内側にハの字のように傾斜した競技用車いすが用いられる。これらの専用車いすには小さな補助輪もついている[3]

クァードクラスでは腕の筋力が弱い選手もいるため、ラケットと手をテーピングで留めることが認められている。競技の際には障害のために汗をかくことができず体温調節が困難な選手に配慮して、日よけや氷を準備するなど暑さへの特別な対策も求められる[4]
歴史
はじまり

障害者が車いすでテニスを楽しむことはレジャーとしてはそれまでにも存在していたが、1976年、アクロバットスキーの競技中のけがにより下半身不随となっていたアメリカのブラッド・パークスが、ジェフ・ミネンブレイカー(Jeff Minnenbraker)とともに車いすの改良を含め、本格的な競技スポーツとして成立させたのが、車いすテニスの始まりとされる。

1977年春、パークスはアメリカ西海岸でエキシビションマッチを開催、これを受けてロサンゼルス市が20名の選手が参加する初のトーナメント戦を実施した。1980年にはパークスが中心となってアメリカ車いす財団(NFWT)が設立され、初の全米オープンが開催となり、アメリカ国内各地でツアーも行われた。このツアーの時期にパークスらはジョン・ニューカムフレッド・ストール、チャーリー・パサレルとの知己を得て、オーストラリアでのエキシビションマッチに招待された[5]
国際化

1981年、競技としての車いすテニスの国際普及を目指して車いすテニス選手協会(WTPA)が設立され、アメリカ国内を転戦して全米オープンで勝者を決定するグランプリサーキットの第1回大会が行われ、パークスによる教本も出版された。

ヨーロッパではフランスで国内ツアーが開催され、ヤニック・ノアアンリ・ルコントといったプロテニス選手が車いすテニス選手と組むエキシビションも行われた。1983年にはパリ郊外のアントニーでアントニー・オープンと呼ばれる初の車いすテニスの国際トーナメントが開催された。1984年、イギリスのストーク・マンデビルで初めて車いすテニスの公開競技が行われた[6]

日本で本格的な普及活動が始まったのもこの頃で、1983年、ハワイのホノルルマラソンに車いすで参加した松尾清美は、現地で車いすテニスを体験し、帰国後に友人達と練習を始めた。[7]また、ロサンゼルスで車いすテニスに出会ったことをきっかけに、佐藤政廣はパークスの教本を日本語に翻訳し、講習会を実施、障害者と健常者がダブルスを組むニューミックスの競技会を開催した[8]。1985年には福岡県飯塚市飯塚国際車いすテニス大会(ジャパン・オープン)の第1回大会が行われた。

1985年、ワールドチームカップが創設された。第1回大会は男子選手が中心であったが、翌年の大会から女子の部が正式に発足した。

ヨーロッパでは1985年に欧州車いすテニス連盟(EWTF)が設立され、翌1986年に最初のフレンチ・オープンが開催されて欧州における競技人口およびトーナメント数が急増した。1987年にはイギリスの国際ストーク・マンデビル車いす競技大会に車いすテニスが正式に加わった。

1988年7月、国際テニス連盟が車いすテニスにおける2バウンドによる返球ルールを承認し、この新競技を正式に認可した。10月にはブラッド・パークスを会長とする国際車いすテニス連盟(IWTF)が設立された。最初の加盟国はオーストラリア、カナダ、フランス、イギリス、オランダ、イスラエル、日本、アメリカの8カ国である。

さらに、国際ストーク・マンデビル車いす競技連盟(ISMWSF)と国際テニス連盟の働きかけによって、車いすテニスはソウルパラリンピックの公開競技に選ばれ、男女シングルスの試合が行われた[9]
深化と統合

1989年、初の全豪オープンがオーストラリアのメルボルンで開催された。1990年にはアメリカ、フロリダ州キー・ビスケインで行われたリプトン・プレイヤーズ選手権に車いすテニス部門が設立され、健常者のプロテニス選手と同じ競技会に初めて車いすテニス選手らが参加した。

1992年、ソウル大会での成功を受けて車いすテニスがバルセロナパラリンピックの正式種目となり、男女のシングルスおよびダブルスの競技が行われ、同年、国際車いすテニス連盟のスポンサーとなったNECの名を冠したNEC車いすテニスツアーが発足した。


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