身位
[Wikipedia|▼Menu]

身位(しんい)とは、日本皇族皇室内部での身分及び地位の差異を示す区分である。

現代日本の皇室において、皇族の身位とは、皇后太皇太后皇太后親王親王妃内親王王妃女王をいう。この他に、皇嗣たる皇子である皇太子皇室典範の規定上は親王に限定される)、その妃である皇太子妃(規定上は親王妃)又は皇嗣たる皇孫である皇太孫(規定上は親王)、その妃である皇太孫妃(規定上は親王妃)が存在し得る。
定義・法的根拠
現行
日本国憲法第二条
皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
皇室典範第五條
皇后太皇太后皇太后親王親王妃内親王王妃及び女王を皇族とする。
同第六條
嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする。
同第七條
王が皇位を継承したときは、その兄弟姉妹たる王及び女王は、特にこれを親王及び?親王とする。
同第八條  
皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法第四条第一項
上皇の后は、上皇后とする。
旧皇室典範※引用註:()内は現代かな遣い・新字体に改め、句読点を補ったもの
皇室典範第三十條
皇族ト稱フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃?親王王王妃女王ヲ謂フ(皇族と称うるは太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫・皇太孫妃・親王・親王妃・内親王・王・王妃・女王を謂う)
同第三十一條
皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ?親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス(皇子より皇玄孫に至るまでは、男を親王、女を内親王とし、五世以下は、男を王、女を女王とす)
同第三十二條
天皇支系ヨリ入テ大統ヲ承クルトキハ皇兄弟姉妹ノ王女王タル者ニ特ニ親王?親王ノ號ヲ宣賜ス(天皇支系より入て、大統を承くるときは、皇兄弟姉妹の王・女王たる者に、特に親王・内親王の号を宣賜す)

1889年(明治22年)に定められた皇室典範(いわゆる旧皇室典範)では、上記のとおり定められた。身位について、現行の皇室典範との大きな差異は、親王/内親王の範囲が4世までとされている点及び嫡出の要件が明文化されていない点である。旧皇室典範は1947年(昭和22年)5月まで有効であり、同年10月に11宮家51名(いわゆる旧皇族)が臣籍降下した。
身位の保持※引用註:()内は現代かな遣い・新字体に改め、句読点を補ったもの
(旧)皇室典範第四十四條 
皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍?親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ(皇族女子の臣籍に嫁したる者は、皇族の列に在らず。但し、特旨に依り、なお内親王・女王の称を有せしむることあるべし)
(現行)皇室典範第十二條
皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。

旧及び現行皇室典範とも出生当時から皇族であった女子は、皇族と婚姻した場合は、その身位を保持することが出来る。直近最後の例は、昭和天皇の第一皇女照宮成子内親王であり、盛厚王と婚姻後、皇籍離脱するまでの約4年間、「内親王」と「王妃」の身位を保持し続けた。

一方、旧皇室典範では、皇族女子が降嫁しても内親王・女王の身位を保持できる余地があるのに対し、現行の皇室典範では「皇族の身分を離れる」とされる。
歴史
古代

天平宝字元年(757年)に施行された養老律令継嗣令中の皇兄弟子条において、

凡皇兄弟皇子、皆為親王。(女帝子亦同。)以外並為諸王自親王五世、雖得王名不在皇親之限。

と定められている。すなわち、皇族の身位及び皇親の範囲は下表の通りとなる[1]

養老律令下の身位身位範囲天皇からの関係性備考皇親か否か
親王皇兄弟2親等内親王を含む。皇親
皇子1世
2世女王を含む。
曾孫3世
玄孫4世
皇玄孫の子5世否

「女帝子亦同」の解釈は、より近い世数となる女帝を起点として数えることである[1]。また、701年(大宝元年)に制定された大宝律令でも同様の規定があったと考えられており、これはにはない日本独自の規定である[1]元明天皇草壁皇子[注釈 1]の子らがこの規定に該当し[1]、父系(男系)では皇孫すなわち「/女王」であるが、母系では皇子すなわち「親王/内親王」となる。

なお太上天皇(略称:上皇)は、持統天皇が孫の文武天皇に譲位する際に、新設して就いた位である。
中世?近世詳細は「親王宣下」、「世襲親王家」、「法親王」、および「太上法皇」を参照

大宝律令で、上記のような身位が定められたにもかかわらず、慶雲3年(706年)の格(補注)によって、皇親の範囲は5世王まで拡大された[2]。増大する皇親数はやがて財政を圧迫し、桓武天皇期に100名余りが賜姓降下(臣籍降下)させられるとともに、母の身分が低い皇子の臣籍降下も開始された[2]

二世王であった淳仁天皇の兄弟姉妹を親王/内親王に列したのが、親王宣下の興りであるとされる[2]。賜姓降下の拡大と共に、親王/内親王を特定させる宣下も慣例化し、やがて皇子女であっても宣下が無ければ親王/内親王の位を受けられなくなった。宮号を創立・継承するか、臣籍降下(又は降嫁)しない場合、皇親の出家が慣例化した[3]。皇族男子が出家した後に親王宣下を受けた場合は「法親王」、皇族男子が親王宣下を受けた後に出家した場合は「入道親王」とそれぞれ呼称され、平安時代後期以降は明確に区別された。

鎌倉時代に、天皇又は上皇猶子又は養子となることを要件として、世襲親王家が成立した[3]。世襲親王家からは、第102代後花園天皇、第111代後西天皇、第119代光格天皇を輩出した。江戸時代までに、皇位継承者の確保の観点から世襲親王家の存在意義が理解された[4]

一方、世襲親王家は代を重ねるごとに皇統からは血統的に遠ざかるため、新井白石中井竹山は皇子の出家を改めるよう提言していた[5]。江戸時代の末期、文久3年1863年)年1月に至って皇子女の出家が停止され、明治元年(1868年)4月には皇族の出家が禁止された[6]
王政復古と宮中の席次「王政復古 (日本)」も参照

慶応3年(1867年)12月の王政復古の政変は、五摂家の権力・権威に象徴される宮中の身分秩序を破壊し、皇族と堂上家の地位を押し上げた[7]

宮中の席次は、上位から、

関白准三宮太政大臣左大臣右大臣親王、前関白…(以下略)

とされていた[8]

王政復古の結果、従来、五摂家よりも下位にあった宮家の親王たちも、翌慶応4年(明治元年)1月1日の参賀では、五摂家当主の参朝停止ににより最上位の位置を占めるに至った[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:87 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef