足袋蔵
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旧小川忠次郎商店(忠次郎蔵)

足袋蔵(たびぐら[1])とは、埼玉県行田市にある、足袋産業にかかわる蔵造りの建物。古くはおもに足袋の保管庫であった。壁の柱の間隔が狭く、空間に柱がないのが特徴である。江戸時代から1957年昭和32年)にかけて建築された。土蔵だけでなく、石蔵、煉瓦蔵、木蔵、コンクリート蔵、モルタル蔵など、年代により様々な建築技術による多種多様な蔵が、特定のエリアに固まらず、行田の町に点在している。2017年平成29年)に「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」として日本遺産に認定された[2][3]
特徴

一般に蔵は豊かさの象徴として表通りに面して建造されることが多いのに対し、行田の足袋蔵は敷地の裏庭に建造されているところに特徴がある[4]。これは、石田三成の水攻めに耐えた忍城の城下町であった行田では江戸時代、城と城下町の整備が行われ、商店は表通りに面した幅に応じて課税されたため、通りに面する幅を狭く取り、奥に細長く敷地をとる商店が多い街並みが形成されたことに由来する[4]

この細長い土地の表から順に店舗や住宅が築かれ、中庭に足袋工場を建設し、裏庭に足袋蔵は築かれた[4]。北風に備えて北西方向のみを塗り壁にしたり、北西方向の窓を極端に少なくしたりといった防火・防寒対策を施した「半蔵づくり」の店舗や住宅に続いて、接客のための中庭、工場、足袋蔵、火除けを願う屋敷稲荷が表通りから列をなして並ぶのは、行田の足袋商店特有の配置である[5]。屋敷稲荷は、1846年弘化3年)2月2日の記録的大火となった「伝兵衛火事」の際に、天満稲荷神社から南側へは延焼しなかったため、お稲荷様の御利益であるとして各家で屋敷に稲荷を祀るようにとお触れが出された江戸時代の名残である[6]

建造された年代により様々な建材が用いられ、外観に共通項のない多様なつくりの蔵が約80棟現存している[5]
歴史行田足袋

綿花の栽培に適する地理的な条件が整っていた行田の農家では、江戸時代、藍で染色した糸で織る青縞織や白木綿を副業として製織しており、行田足袋は、こうした地産の青縞織や白木綿を原材料として江戸時代の中頃から作られていた[7]1716年?1736年享保年間の「行田町絵図」に3軒の足袋屋が記されていることから、この頃までには足袋作りが始まっていたと考えられている[3][8]

当初は中山道の要衝にあった近隣の熊谷宿での需要に始まり、明治時代には庶民が日常から足袋を履くようになったことで需要が増え、行田の足袋産業は大きく発展した[9]。足袋生産は行田近郊の農家が現金収入を得る代表的な内職であり、主に婦女子の内職であった。明治時代には忍藩が廃止されたことにより、仕事を失った元藩士が足袋屋を始める例もあった[10]

1875年(明治8年)には20万2,350足を生産した[11]。足袋生産に関わる者が増え、生産量が増えるにつれ、各々の足袋屋が独自に販路を開拓し、やがて東北地方北海道などにも足袋を売りに行くようになった[12]

当時の人々はおもに防寒として足袋を履いたため、足袋の需要は冬場に多く、10月頃に出荷が集中するため、それまでに作り溜めした足袋を保管しておくための「足袋蔵」が必要となり、多数建造された[13]。足袋蔵は江戸時代末頃には建築されていたことが文献により知られているが、現存する足袋蔵では、18世紀後半に忍城城下町の行田で呉服商を営み始めた「大澤久右衛門」家の土蔵が最古である[14]。正確な建築年代は不明であるが、1846年(弘化3年)2月2日に起きた伝兵衛火事と呼ばれる大火災の折、大澤家の2棟の土蔵と、その南側にあった店蔵、それら3つの蔵を繋いで南北に建っていた土壁が類焼を食い止めたと伝えられる[15]。これをきっかけに、「今津印刷所」や「古蛙庵」など防火に秀でた蔵造りの建物が多く建築されるようになった[6]

1877年(明治10年)、西南戦争の軍用特需によって、行田足袋の生産量は50万足に急増した[11][16]1886年(明治19年)には、大工町日野屋の酒蔵を改築した「橋本足袋工場」(橋本喜助)が始業し、これが家内手工業から工場での大量生産に移行した最初の例である[17]。明治時代後期から生産工程にミシンや裁断機などの機械が導入され、生産工程を分業化して作業効率をあげた工場生産が増えるにつれて生産量は増大し、行田足袋は最盛期の1938年(昭和13年)には8,500万足を生産、全国の足袋シェアの80%を占有するまでの地場産業に成長した[18]。しかし、生産量や需要が増大しても、行田の足袋産業は企業を統合して大企業化するのではなく、のれん分けして小規模な足袋屋や足袋生産工場が増え、ピーク時には200社以上の足袋商店が共存共栄して一大産地を形成した[19]

足袋蔵は生産量の増加に伴い、出荷するまで製品を保管しておくために必要になり、数多く建てられていった[20]。既存の土蔵を転用した例も多くある。明治30年代頃までの足袋蔵は、昔ながらの土蔵建築であったが、明治時代の終わりごろには土蔵の小屋組みを基本として洋風の建築技術を取り入れた足袋蔵や、石で作られた足袋蔵も建てられるようになった。大正時代には、建築技術の発展により大型の足袋蔵も登場し、大正時代の末期には鉄骨煉瓦造の足袋蔵も建築された[20]

1873年(明治6年)の忍城取り壊し以降続けられてきた城の跡地を中心とした街の再開発が、1917年(大正5年)の矢場新開地の開設あたりで落ち着き、行田の市街地は忍町から旭町へと徐々に拡大し、1922年(大正10年)の行田駅開業によってさらに市街地が拡大した頃には、足袋産業の発展で手狭になった市街地から、足袋工場は郊外へと次々に進出した[21]イサミ足袋工場のような工場の大規模化も進み、工場と共に足袋蔵も建築されたが、昭和時代になると石造やモルタル造の足袋蔵が主流となった[21]。鉄筋コンクリート造や木造の足袋蔵も作られた[21]

戦時中は統合され大規模化した足袋生産工場も、終戦後には再び分離独立し、新興の足袋商店も多数誕生していったことから、再び小規模な足袋蔵が建築されるようになる[22]。木材の不足から、「孝子蔵」のような石蔵が主流になった[20][22]。その折々の建築技術や材料を用いて、多種多様、大小様々な足袋蔵が150棟以上は建てられていたとみられ、そのうち約80棟は2020年現在も建物として現存している[3][20]。最後に建築された足袋蔵は、1955年(昭和30年)に完成した金樂足袋株式会社の石蔵「草生蔵」で、主に足袋の原材料である反物を収蔵していた[23]。2020年現在も所有者の草生家によって足袋蔵時代の棚を修理し、倉庫として活用されている[24]
構造.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}様々な構造の足袋蔵土蔵(奥貫蔵)石蔵(小川源右衛門蔵)木蔵(行田窯)煉瓦蔵(大澤蔵)足袋蔵の内部(保泉蔵)

足袋蔵は、通気性をよくして水害や湿気から商品を守るために、床を高くして床下に通気口を設けているものが多い[25]


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