足立光宏
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足立 光宏基本情報
国籍
日本
出身地大阪府大阪市此花区
生年月日 (1940-03-10) 1940年3月10日(84歳)
身長
体重173 cm
74 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1959年
初出場1959年4月10日
最終出場1979年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


大阪市立西高等学校

大阪大丸

阪急ブレーブス (1959 - 1980)

コーチ歴


阪急ブレーブス (1980 - 1985)

関西学院大学

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

足立 光宏(あだち みつひろ、1940年3月10日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手投手)。阪急ブレーブスの主戦投手として、1967年のリーグ初優勝から1978年に至る「黄金時代」を支えた[1]
来歴
家系

足立忠太郎の長男として大阪府大阪市此花区において生れる。本籍地の兵庫県氷上郡遠坂村(現・丹波市青垣町遠阪)は、丹波足立氏の本拠地で、光宏はその嫡流子孫の一人にあたる。足立家の祖は、藤原北家流・遠兼の子遠元で、遠兼が武蔵国足立郡(現・東京都足立区近郊)に移り足立氏を称した。承元3年(1209年)丹波国氷上郡佐治庄の新補地頭職となった遠元の孫の遠政が、足立一族を率いて武蔵国より佐治庄小倉へ移住し、山垣城・遠阪城を本拠として築き、丹波足立氏の祖となった[2]。詳細は「関連系図」を参照
プロ入り前

父・忠太郎は成人後に氷上郡本貫を離れた。父は大阪でメリヤス工場を営んでいたが、大阪大空襲に罹災して自宅も工場も焼失し、光宏自身も空襲から何度も逃げる経験をして「人間として性根も腹も据わったね。プロでもピンチでびびったことがないもん」と回想している[3]。焼け出されたため兵庫県尼崎市の親類宅に移り、田畑を走り回る「ガキ大将」の少年時代を過ごす[3]。貧しい生活の中、小学5年生の時に父からグラブを買い与えられ、道具を大切に使う習慣が身についたという[3]。その後、大阪市内に戻った[3]

大阪市立下福島中学校時代までは我流のフォームで「上からも横からも投げた」という[3]大阪市立西高等学校1年生時に肘に軟骨ができたことから、1年の休養を余儀なくされた。休養を経て痛みは消えたが、再発への不安から痛みのないフォームを模索するうち徐々に腕の位置が下がり、アンダースローで投げるようになった[4][5]

高校卒業後は勧誘を受けて社会人野球大阪大丸に進む[5]。野球チームを持つ製薬会社からも勧誘があったが、就職先で仕事ができる(高校が商業科だったため、そろばんと簿記の知識があった)ことが決め手だった[5]

1958年第29回都市対抗野球大会に、ルーキーながら全鐘紡の補強選手として出場。2回戦で東洋紡岩国を降し勝利投手となる。準々決勝では先発してニッポンビール北川芳男らと投げ合い、完投するも0-1で惜敗。この大会での好投がプロのスカウトの目に留まる[5]
現役時代

1959年阪急ブレーブスに入団。読売ジャイアンツ(巨人)、阪神タイガース広島カープなどからも誘われたが、東京嫌いで巨人は眼中になく、「やりがいが一番ありそう」だったことと「ほのかにヨネカジさんにも憧れがあった」という理由で阪急を選んだ[5]。開幕戦だった4月10日の対東映フライヤーズ戦で7回から登板して3イニングを抑え、勝利投手となる[5]。しかし、その後は伸び悩んだ[5]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}当初の球種は直球とカーブだけであったが、下手投げ特有の浮き上がる速球を武器とした(同じく浮き上がる速球が武器の投手として杉浦忠が有名だが、若い頃、杉浦を想定してのバッティング投手をやらされることがよくあったという)。加えて、コントロールの良さにも定評があった。[要出典]1962年、春のキャンプから好調だったが、監督戸倉勝城に干されて登板のチャンスを得られず、5月初旬の沖縄遠征からも漏れてしまった[6]。しかし、5月24日の対南海戦に初先発すると、いきなり1試合17奪三振のプロ野球記録(当時)をマーク。同年は米田哲也(20勝)・梶本隆夫(14勝)に次ぐ8勝に防御率1.96を挙げて頭角を現す。

1963年に監督に就任した西本幸雄に足立は多用され[7]、47試合、200イニングス超の登板を果たす。しかし、内から湧き出る力がバランス良く球に乗り移らずいたずらに空転している感じで[8]、勝ち星を伸ばせず、6勝18敗、防御率3.45に終わった。負けが多くても使ってくれた西本への信頼感に応えるため、足立は練習に力を入れた[7]1964年には13勝を挙げて初めて規定投球回に到達してリーグ10位の防御率2.78を記録。以降、1964年15勝、1965年17勝と勝ち星を伸ばす。1967年には20勝10敗・防御率1.75で最優秀防御率タイトルを獲得して阪急の初優勝に大きく貢献、投の米田・梶本、打のスペンサー長池を抑えてMVP にも選ばれた。V9さなかの巨人との日本シリーズでも4試合に登板。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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