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足尾鉱山
足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)または足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、日本初の公害事件である。
足尾銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり[1]、国に問題提起するものの、加害者決定はされなかった。
1972年(昭和47年)3月31日、板橋明治を筆頭代理人とした群馬県太田市毛里田地区(旧・山田郡毛里田村)の被害農民(太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会)971名が、古河鉱業株式会社(現:古河機械金属株式会社)を相手とし、総理府中央公害審査委員会(後の総理府公害等調整委員会)に提訴。2年後の1974年(昭和49年)5月11日、調停(銅等の重金属汚染・土地改良事業・損害補償・自治体との公害防止協定など)を成立させた。「100年公害」と言われたこの事件の加害者をついに古河鉱業と断定、加害責任を認めさせるという歴史的な日となった。
足尾の精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。 鉱毒ガスやそれによる酸性雨により、日光市足尾町(旧・上都賀郡足尾町)近辺の山は禿山となったのである。木を失い土壌を喪失した土地は、次々と崩れていったが、この崩壊は21世紀となった現在も続いている[注釈 1]。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。このため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、足尾の山林の荒廃とともにカスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。 鉱毒による被害はまず、1878年と1885年に、渡良瀬川の鮎の大量死という形で現れた。ただし、当時は原因が分かっておらず、これを8月12日に最初に報じた朝野新聞[2] も、足尾銅山が原因かもしれないというような、あいまいな書き方をしている。1885年10月31日、下野新聞が前年ごろから足尾の木が枯れ始めていることを報じ、これら2つが足尾銅山と公害を結びつける最初期の報道と考えられる。なお、古河鉱業は1884年、精銅の輸出拡大等のために横浜に溶鉱炉を建設していた(のち古河電気工業)。 次に、渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。これに怒った農民らが数度にわたり蜂起した。田中正造はこのときの農民運動の中心人物として有名である。なお、この鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大した。田畑への被害は、特に1890年8月と1896年7月21日、8月17日、9月8日の4度の大洪水で顕著となった。 1897年3月3日、鉱毒被害地の人民2000人余は、徒歩で東京に出発、館林・佐野・古河などで警官に阻止され、この日800人は東京日比谷に結集、農商務省をかこみ鉱業停止を強力に請願した。5月27日、東京鉱山監督署は、鉱業主古河市兵衛に鉱毒排除命令を出した[3][4]。 1892年の古在由直らによる流域の土壌分析調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸[5]。 1901年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となった。この他、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して同様に廃村となった。 対策の節で述べる工事が1897年から1927年にかけて行われると、表だった鉱毒被害は減少した。
経緯1895年頃の足尾鉱山煙害により崩落を続ける足尾の山(赤倉山麓) 2005年3月撮影
鉱毒公害の発生
被害の拡大田中正造