真弓山城
(愛知県)
真弓山城(足助城)本丸
(2009年(平成21年)9月)
別名足助城
城郭構造山城
築城主鈴木氏?
築城年不明
主な城主足助鈴木家
廃城年1590年(天正18年)
遺構曲輪跡など
再建造物高櫓・物見櫓・厨など
位置北緯35度8分3.56秒東経137度19分29.79秒
真弓山城(まゆみやまじょう)は三河国加茂郡足助庄(現・愛知県豊田市足助町)の真弓山(標高301メートル)にあった日本の城。現在では「城跡公園足助城」として整備・公開されている。 「足助城」「松山城」「足助松山の城」などと呼ばれ、かつては足助氏の築いた足助七屋敷の1つと推測されていたが、後述の発掘調査で足助氏の時代の遺構が検出されなかったことなどから、現在では戦国時代にこの地を治めた足助鈴木家の本城であったと考えられている。築城時期は不明。 1525年(大永5年)に松平清康がこの城を攻めた記録が残り、この際に清康の妹・久[1]を2代鈴木重政の嫡子・重直に嫁すことで一旦は松平氏に下っている。その後は離反帰服を経て、1564年(永禄7年)に松平家康に攻められたのちは完全に服属し、以降は松平氏の家臣団として戦った。 1590年(天正18年)、家康の関東入国に従って鈴木氏も足助を離れ、真弓山城は廃城となった。 地元では古くから香嵐渓の象徴とも言える飯盛山に城を築きたいとの考えがあり絵図面が引かれたこともあったという。 1989年(平成元年)に愛知県が開始した「愛知のふるさとづくり事業」と国のふるさと創生基金を合わせて城の復元を行なうことが計画されたが、飯盛山は県の史跡指定がなされていることや、時代が古いために櫓など小規模な復元にとどまることなどから、戦国時代の城である真弓山城を復元することが決定され、1990年(平成2年)から1992年(平成4年)にかけて発掘調査と復元が行なわれた[2]。 事業にあたっては幾つかのコンセプトが定められた。 発掘調査ののち、本丸には高櫓と長屋、西の丸に物見矢倉、南の丸にも物見台や厨、また各所に板塀などが復元され、1993年(平成5年)5月に「城跡公園足助城」として開城した。
目次
1 概要
2 城跡公園足助城
2.1 城の復元
2.2 利用案内
2.3 アクセス
2.3.1 自家用車
2.3.2 公共交通機関
2.4 復元後の問題
3 参考画像
4 脚注
5 関連項目
6 参考文献
7 外部リンク
概要
城跡公園足助城
城の復元
戦国時代の鈴木氏の城を復元する。
事前に発掘調査を行い、建物跡を検出できた場合は、それに基づいて復元をする。そして、遺跡保存の観点から、盛り土等で遺構面の保護をする。
建物跡を検出できない場合は、絵図等が残されていないので、想定で復元する。ただし、石積みの白亜の天守閣はつくらない。
城館の復元だけでなく、戦国時代の生活を浮かび上がらせる工夫を行なう。
利用案内
開園時間 9時?16時30分
休園日 年末年始(12月28日?1月4日)
入園料 大人300円、高校生以下100円(20人以上の団体は1割引)
アクセス
自家用車
足助町内・国道153号から西町交差点を国道420号側へ入り約500メートル、落部駐車場の手前を左折して約1キロメートル。
足助までの所要時間などは香嵐渓を参照。
公共交通機関
名鉄豊田線浄水駅・三河線猿投駅
とよたおいでんバス:さなげ・足助線(百年草
復元後の問題
1997年(平成9年)以降、4年連続で法面の崩壊が発生し、2000年(平成12年)の東海豪雨では大規模な被害を受けている。
掘立柱建物という構造上(防腐処理は行なわれているものの)柱の腐朽損傷が進み、既に交換が行なわれたものもある。
建物ごとに屋根の葺き方が違っており、葺き替え材料・職人の手配が困難で経費がかかっている。
城には出土品を展示するスペースがほとんどない(ほとんどが足助資料館
また、城の存在自体が観光客には周知されておらず、香嵐渓を訪れる観光客が入城者に繋がっていない[3]ことも問題とされている。
参考画像