足利義量
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 凡例足利 義量
足利義量像(鑁阿寺蔵)
時代室町時代中期
生誕応永14年7月24日1407年8月27日
死没応永32年2月27日1425年3月17日[1]
戒名長得院殿鞏山道基
官位正五位下、右近衛中将、従四位下、参議、
美作守、正四位下、贈従一位左大臣
幕府室町幕府 第5代征夷大将軍
(在職:応永30年(1423年) - 応永32年(1425年))
氏族足利氏足利将軍家
父母足利義持日野栄子
兄弟義量、三淵持清(異説あり)
妻なし
子なし
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足利 義量(あしかが よしかず)は、室町時代中期の室町幕府の第5代征夷大将軍[2](在職:応永30年3月18日1423年4月28日) - 応永32年2月27日1425年3月17日))。
生涯
生まれ

父は第4代征夷大将軍・足利義持で長男。母は日野資康の娘で義持の正室日野栄子で応永14年7月24日(1407年8月27日)に生まれた。応永24年(1417年)12月1日、義持が加冠して元服し、正五位下右近衛中将に任じられた。義持は嫡子の義量をかなり鐘愛していたようで、義持の参詣や参籠、遊覧の時にはほとんどにおいて義量は同行していたという[3]
将軍職就任

応永30年(1423年)1月1日、義持・義量父子は朝廷に参内し、それから畠山満家斯波義淳細川満元らの屋敷にそれぞれ渡御している事から、この年初から義量への将軍職譲渡への根回しが行なわれていたと推測されている。3月9日には9日後に義量の将軍宣下を行なうように申し入れており(『満済准后日記』)、3月18日、17歳で父から将軍職を譲られて第5代将軍に就任した。就任の日には諸大名が、3月20日には僧俗が群参して馬や太刀を献上して祝ったという[4]。応永31年(1424年)10月13日には参議に任命されて廟堂に列した[3]大御所となった義持はまだ38歳であり、これは自らが父の義満に早くに将軍職を譲られた例を踏襲したとされている[3]
早世

義量は疱瘡を患うなど生来病弱であった上、大酒飲みでさらに健康を悪くしたと言われている。江戸時代後期に編纂された『大日本野史』では、「性酒を好み劇飲度なかりしといふ」としている[5]。またこの見方は田中義成永原慶二といった歴史家も「酒のために早世したり」「酒色に溺れた」と踏襲している[6]

花営三代記』応永28年6月25日条・6月29日条には、15歳の義量が父の義持に大酒を戒められ、近臣は義量に酒を勧めないよう起請文をとられたという話なども伝えられている[7]。ただし清水克行は、起請文の一件は義持本人が度々「禁酒令」を出していたことによるもので、これを除くと義量と酒に関係する同時代史料は見い出せず、義量が大酒飲みであったとする事実は認められないと指摘している[6]

幕政においても隠居していた義持や有力管領らの存在もあって実権は無いに等しかった[3]。死の2、3年ほど前から病を得て様々な治療や祈祷を受けていたが(『看聞日記』)、応永32年(1425年)2月27日に父に先立って急死した。享年19[8](満17歳没)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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