凡例足利 義輝 / 足利 義藤
足利義輝像(国立歴史民俗博物館蔵)
時代戦国時代
生誕天文5年3月10日(1536年3月31日)
死没永禄8年5月19日(1565年6月17日)
享年30(満29歳没)
改名菊幢丸(幼名)→義藤(初名)→義輝
戒名光源院融山道圓
官位従五位下、正五位下・左馬頭、従四位下・征夷大将軍、参議、左近衛中将
贈従一位・左大臣
幕府室町幕府 第13代征夷大将軍
(在職:1547年(天文15年) - 1565年永禄8年))
氏族足利将軍家
父母父:足利義晴、母:慶寿院(近衛尚通の娘)
猶父:近衛尚通
兄弟義輝、義昭、周ロ、ほか
妻正室:大陽院(近衛稙家の娘)
側室:小侍従局(進士晴舎の娘)[注釈 2]
子輝若丸、女子(耀山、宝鏡寺住持)、女子(伝山性賢、宝鏡寺住持)、尾池義辰?、天誉
足利 義輝(あしかが よしてる、1536年3月31日〈天文5年3月10日〉- 1565年6月17日〈永禄8年5月19日〉)は、室町幕府の第13代征夷大将軍(在職:1547年1月11日〈天文15年12月20日〉 - 1565年6月17日〈永禄8年5月19日〉)[2]。初名は義藤(よしふじ)[3]。
生涯
少年期と将軍就任足利義晴像(古画類聚)
天文5年(1536年)3月10日、室町幕府の第12代将軍・足利義晴の長男として、東山南禅寺で誕生した[4]。母は近衛尚通の娘・慶寿院[4]。幼名は菊幢丸(きくどうまる)と名付けられた[4]。
将軍と御台所の間に生まれた男子は足利義尚以来であり、摂関家出身の女性を母に持つ将軍家の男子は菊幢丸が初めてであった[5]。
誕生直後、父の義晴が近衛尚通に頼んだ結果、菊幢丸はその猶子となった[6][7]。尚通は未来の将軍の外祖父になれたことを喜び、菊幢丸の誕生を「祝着極まりなきものなり」と日記に記している[6]。
この頃の幕府では、父・義晴と管領の細川晴元が互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れて近江国坂本に逃れ、菊幢丸もそれにたびたび従った。その後も父とともに、京都への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返した。また、それまでの将軍家の嫡男は政所頭人である伊勢氏の邸宅で育てられる慣例であったが、菊幢丸は両親の手元で育てられた[8]。
天文15年(1546年)7月27日、菊幢丸は朝廷より、義藤の諱を与えられた[3]。また、同年11月19日には朝廷から将軍の嫡子が代々任じられてきた左馬頭に任じられた[3]。これらは全て、父・義晴が朝廷に依頼し、実現したものであった[3]。
同年12月19日、義藤の元服が執り行われた[3]。元服式は近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官・樹下成保の第で行われ、六角氏の当主・六角定頼が烏帽子親となった[3][9][10]。