足利義維
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 凡例足利義維
足利義維坐像(阿波公方・民俗資料館蔵)
時代戦国時代安土桃山時代
生誕永正6年(1509年)、または同8年(1511年)? [1]
死没天正元年10月8日1573年11月2日
改名義賢(初名)→義維→義冬
別名堺公方、堺大樹、平島公方、阿波公方[2]、阿波御所[3]、左馬入道殿[4]、無覺寺殿[5]
戒名慶林院実山道詮
墓所徳島県阿南市那賀川町赤池西光寺
官位従五位下・左馬頭
幕府室町幕府
氏族足利将軍家
父母父:足利義澄、母:武衛娘、または細川成之の娘[6]
養父:足利義稙
兄弟義晴、義維[注釈 1]
妻正室:大内義興の娘[7]
義栄義助、義任、光善院明岳、西念
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足利 義維(あしかが よしつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物。室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男(または長男)[8]。第10代将軍・足利義稙の養子。第14代将軍・足利義栄の父。堺公方平島公方(阿波公方)と呼ばれた。
改名歴

一般的には義維の名で広く知られているが、生涯の間に数回改名している。幼名は不詳[9]

義賢(よしかた) - 義稙が大永元年(1521年)に京都を出奔したときに、義賢を伴って和泉淡路を転地とあり、その名が見える[10]

義維(よしつな) - 大永7年(1527年)7月13日の叙任時、義賢から改名[11]

義冬(よしふゆ) - 天文3年(1534年)9月末の堺公方崩壊後、淡路国志筑浦に渡ったときに義維から改名[11]

※以下、本文中では原則、記事題名となっている義維で統一する。
生涯
誕生と阿波への下向

永正6年(1509年)、または同8年(1511年)、足利義澄の次男(または長男)として、近江国蒲生郡水茎岡山城で誕生した[12][13]。母は武衛娘、または細川成之の娘とされる[6]

当時、父の義澄は大内義興に擁された前将軍・足利義稙が上洛した煽りを受け、将軍職を解任されており、近江六角高頼を頼って落ち延びていた[14]。だが、永正8年に六角高頼が義稙と内通しているとの噂が流れたため、義澄は2人の息子をそれぞれ別の地域に送ることにした[14]。兄弟の義晴が播磨国赤松義村のもとに送られたのに対し、義維は阿波国細川澄元のもとに送られ、その庇護の下で成長した[14]

永正18年(大永元年、1521年)3月、管領の細川高国と対立した義稙が京都を出奔し、7月に義晴が高国によって新将軍に擁立された[15]。他方、義稙は阿波に逃れたが、息子のいない彼は義維を養子とした[15][13]
将軍への擁立と堺公方の樹立

大永6年(1526年)7月、細川高国が家臣の香西元盛細川尹賢の讒言に応じて殺害すると、元盛の兄弟である波多野元清柳本賢治らが高国から離反し、内紛が発生した[16][17]。これにより、新たな戦乱が始まり、義晴の幕府が動揺した[17]。そして、長らく阿波に逼塞していた義維、細川晴元 (澄元の嫡子、当時は六郎)及びその重臣である三好元長らはこれを好機ととらえた[17]

11月19日、三好元長と細川晴元の側近・可竹軒周聡が阿波より連署で、波多野清秀が義維方に帰参したことを波多野次郎に伝えており、畿内の反高国方と連絡を取り合っている[17]

12月14日、四国衆や畠山式部少輔、畠山上総などの軍勢7、8千が和泉に渡海した[17]

大永7年(1527年)2月、義維は高国と対立していた細川晴元、三好元長に擁立され、阿波から淡路に兵を勧めた[17]。また、晴元方の細川澄賢、三好勝長、三好政長らが堺を経て、上京した[16][18]。このとき、義維・晴元方は和泉の松浦守や因幡の山名誠通、伊勢の長野稙藤らと連携し、義晴・高国方に属する但馬の山名誠豊や近江の六角定頼、伊勢の北畠晴具を牽制する戦略を進めていた[19]

2月13日、晴元方が高国方を桂川原の戦いで破り、義晴と高国を京から近江坂本に放逐した[16][19]

3月22日、晴元と義維は三好元長に奉じられ、堺へと入った[16][18]。その後、義維は入京せず、堺の四条道場引接寺に滞在しながら、晴元とともに京都を支配した[19][15]。そのため、義維とその政権は現在の戦国史において、堺公方(または堺大樹、堺幕府)と呼ばれている[15]

6月17日、義維は朝廷に対し、従五位下・左馬頭への叙任を請願した[20]。左馬頭は足利将軍家の家督継承者、あるいは後継者が任じられる官職である[15]

7月13日、義維は朝廷から 従五位下、左馬頭に叙任された[15]。この叙任によって、義維は将軍就任の前提を得る形となった[15]。また、義維は東坊城和長の撰進によって、名を「義賢」から「義維」に改めた[20]

これにより、義維は当時、将軍を意味する「武家」、「公方」、「大樹」と呼称され、畿内には事実上、二人の将軍が存在することになった[21]。義維は既に前年の12月より、斎藤基速と斎藤誠基を中心に、松田光綱、松田光致、飯尾為隆、治部直前らによる奉行人連署奉書を発給し、義晴と同様に畿内の支配にあたろうとした[22]。義維は京都に入ることはなかったが、京都を支配するため、奉行人連署奉書を発給し、各種の訴訟や嘆願に対応している[21]

だが、京都を支配したのは義維を擁した晴元の家臣であり、義維自身の支配は脆弱であった[21]。また、京都は古来より攻めやすく守りにくい地であり、義晴とその陣営が存在する限り、すぐに奪還される可能性もあった[21]。実際、義晴は京都を回復するため、3月16日に阿波海部郡の海部元親に忠節を命じたほか、同日に豊後大友義鑑、5月19日には土佐一条房家に対し、阿波に攻め入るよう命じている[23]
義晴との攻防足利義晴

8月20日、朝廷は年号を大永から享禄に改めたが、この改元を義晴方とは交渉したもの、義維方には諮っていなかった[22]。そのため、義維方はこれに抗議する形で、大永の年号を11月に至るまでの3ヶ月間使用し続けた[24]

10月、義晴が細川尹賢、六角定頼、朝倉教景ら5万人の軍勢とともに入京した[19]。さらに、義維方の畠山義堯を破り、西岡まで進出したものの、三好元長と柳本賢治が挟撃し、19日にこれを破った[19]。その後、両軍はともに入京し、義晴と元長との間で交渉が行われた[22]

大永8年(享禄元年、1528年)1月17日、三好元長は六角定頼の仲介を受け、義晴と和睦した[22]。このとき、元長が義晴の滞在していた東寺を訪問して、義晴と面会している[25]。だが、柳本賢治がこれに反発したほか、三好政長も賢治に同調して、28日に京を去った[22]

この和睦は義晴方では高国が推進しており、元長は和睦を反故にすることはないと考えていた[22]。だが、2月9日には晴元もこの和睦に反対していることが判明した[22][25]。そのうえ、3月19日には元長が失脚し、四国に下向するという噂が流れた[22]

5月14日、高国が失脚して京都から逃亡したのち[22]、義晴は軍勢2万(うち1万は六角勢)とともに近江坂本に移った[16]。和睦交渉自体は晴元と義晴方の六角定頼との間で継続されたが、堺の義維が阿波に退却しなかったため、義晴は晴元を疑うようになった[16][22]。そして、7月に元長が京において、地子銭の徴収を強行したため、交渉が決裂した[22]

9月、義晴が近江坂本から山間部の朽木に移動した[22]。以後、畿内は和泉堺の義維・晴元方と、近江朽木の義晴・高国方に二分され、両勢力が並立することになった[19]

享禄2年(1529年)10月、元長が柳本賢治との権力争いに敗れ、阿波に帰国した[26]。賢治は松井宗信とともに京都を支配し、翌年から義晴方の伊勢貞忠との間で和睦交渉を行った[26]


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